『芝浜』(新春蔵出し!まるごと立川談志 080103 NHK総合)覚え書き

【総論】

談志の落語は「断片から全体を想起させる」という仕組みになっている。

あるいは「非論理を積み重ねて論理にする」という力技。

談志は「芝居をしない」あるいは「台詞を言わない」。

脚本というのはどうしても論理的になってしまうが

談志の落語は決して論理的にはならない。

「非論理」しかない。

そして細部の「非論理」は、どういうわけだか全体の「論理」を導いてしまうことがある。

ちゃんと演じた場合はそのようにしかならないはずだ。

【各論】(一部)

「うれしかったよ」と「別れないで/好きだよ」は、勉強不足なだけかもしれないけど、初めて聴いた言葉だった。

「うれしかったよ」を「旦那が更正したこと」ではなくて「旦那が大金を拾ったこと」に対して使い、大家に「身につけたらろくなことがないから《届けろ》」と言われたことを明言したことで、「女房が下心を持ってネコババした」が強調される(結局届けなかったわけだから)。女房を善人として描いていない。さらに「好きだよ/別れないで」を加えて、「金もほしいし、《立派な》旦那もほしい」という女の欲望をストレートに表現している。(これが番組中の言葉で言えば「人間の業の肯定」になるのだろう。)

女房の欲望を見せることで「説教臭さ」は消えて、旦那とはいわば共犯関係になる。善でもなければ立派でもなく、ただただそこには「金と、自分が愛せるような男がほしい」という欲望がある。ここにもし「隠さなければ旦那はダメになる。ダメな男は愛せない。以前はダメな男ではなかった。だから再び元に戻るはずだ。私の愛せるような男に。」という発想があるのだとしたら、「だめんずうぉーかー」なり「男のDVに耐える女たち」の心理と重なる。(これを番組の言葉で言うと「伝統を現代に」ですかね?)

だって、「別れないで/好きだよ」っていう言葉を吐くのは「金があり、働くようにもなった夫=理想の男」を目の前にしてのことだもんね。「ダメ男でもいいの。あたしがなんとかするから…」という種類の愛情はだから説得力を持たない。今回の『芝浜』では、金を隠した目的は「夫を更正させる」という愛情よりもむしろ「夫が逮捕されるのを防ぐ」という打算(大晦日の告白で強調される)のほうが強いようにさえ思われた。

さげの「本当に飲むぞ?」を、あまり引っ張らずにわりとさらりと「よそう」へ持っていき、さらにさらりと「また夢になるといけねえ」へと流したのも、ちょっと意外な感じがした。あれは何かっていうと、たぶん「冗談」なんだろう。だって「冗談交じりの笑顔」に見えたんだもの。少なくとも《悩んで迷って苦しみぬいた真剣な表情》ではない。あるいはもしかしたら、「酒を飲みたがり、勧めてくる女房」への「たしなめ」も含まれていたのかもしれない。そりゃそうだ、本当に人が変わっていて、しかも最後には《結局飲まない》を選ぶのだとしたら、たいして迷わなくても不思議はない。むろん、真剣に迷うのも「人間の業の肯定」になりうるのだが、それは「旦那の業の肯定」を描く場合で、「女房の業の肯定」を描くのであれば、あまり迷わず、冗談交じりに「たしなめ」をほのめかすような顔をしたほうが良い。

「こいつは自分に言ってんだ! おめえに言ってんじゃねえぞ」と、芝浜の財布が夢であったと悟った(実際は騙されたわけだが)時の旦那は言ったわけだが、さげの「よそう。また夢になるといけねえ」は、果たして《誰》に向かって言ったのか? 自分に言ったのであれば「旦那の業の肯定」だし、女房に言ったのであれば「女房の業の肯定」になる。演出なり聴き手次第。