プリキュアの美しき魂

 プリキュアを見るのは主に女児である。
 しかし、小学二年生くらいになると「卒業」する子が多いようだ。
(いつ卒業するかには個人差があると思うけど、僕が聞き取りした感じではだいたいそのくらい。)
 一作目『ふたりはプリキュア』は2004年2月に始まっているので、当時(2004年度とする)に小学二年生だった子は高校一年生になっている。
一作目を見ていたという高校三年生の女の子に、プリキュアについて覚えているか聞いてみたら、「面白かった」という印象はあるが、詳しくは覚えていないという。だいたいそんなもんだろう。
 中学三年生の女の子に聞いてみたら、やっぱり似たような感じだった。夢中になっていたことは覚えていても、内容の詳しいところは覚えていない。どっちがメップルでどっちがミップルだっけ? とか、そういった感じである。
 女児にとってプリキュアとは(おジャ魔女どれみやなんかでもそうだと思うが)、「面白かった気がするけど、よく覚えていない」ようなものなのだ。僕はそれでいいと思う。というか、そうだからこそいいとさえ思う。覚えていなくても、プリキュアの美しき魂は心の奥底に張り付いているはずだ。仲良くなって、客観的に見てもいい子だなと思えるような女の子が、「ちいさいときプリキュア(初代)好きだったなあー」とか言っているのを聞くと、本当に本当にうれしくなる。名作とはそういうものだ。むしろ「覚えている」というのは、そういうことでもあるのかもしれない。具体的なことはすべて忘れてしまっても、必ず何か残るものがある。心が覚えている。それこそを僕は「プリキュアの美しき魂」と呼びたい。

 ところで僕は、三作目以降のプリキュアは少しずつ堕落していったと思っている。詳細はともかく、僕はそういう前提の上でこの文を書いている、ということが重要なので、一旦そういうことにしておいてほしい。
 プリキュアは、決して堕落してはいけない。小さいころ「プリキュアの美しき魂」に魅せられていた子供たちが、堕落したプリキュアを見たらどうなるだろうか? 「あれ? プリキュアってこんなもんだったっけ? 小さいころは夢中になって見ていたけど、大きくなってから見たら大したことないじゃん。なあんだ」と、なってしまうのが僕は恐ろしいのである。彼女たちは、「なんか今のプリキュアって面白くないなあ」と確信できるほど、プリキュアのことを正確に覚えてはいない。
 堕落したプリキュアは、「覚えていない」ということにつけ込む。「あんまり覚えていないけど、私が見ていたプリキュアは面白かった気がするから、今のプリキュアも子供たちにとっては面白いんだろう」と思わせる。無垢な子供たちは「面白い」と言うかもしれない。しかし、そこには僕が(主観的に、しかし確信的に)思う「美しき魂」はないのである。
 はっきり言ってしまうが、堕落したプリキュアはかつて女児だった女の子たちの想い出を踏みにじっている。楽しかった、なぎさやほのかとの想い出を、「こんなもんだったっけ?」に変えてしまう。「なんかオタクの人たちがやたら好きとか面白いとか言ってる……私が好きだったのってそういうのだったんだぁ……」と、思わせてしまう。そして、プリキュアの美しき魂を、ひょっとしたら無効化させてしまう、かもしれない。そんなやわなものではないと信じたいが。
ふたりはプリキュア』は面白かった。面白かっただけではなく、本当に大切なことばかりを女児たちに語りかけていた。

 今話題になっている女児カバン詰め込み事件の犯人は、ツイッターのアイコンを『ハートキャッチプリキュア!』(2010年)のキャラクターにしていたという。だからなんだっていうことを言うつもりはないが、「犯人はプリキュア好き」なんていう報道の仕方もされてしまって、なんだか悲しくなってしまった。