死のこと

さくらももこさんのこと(だけ)ではない。お客さんがまた一人亡くなった。
またというのは、今年に入ってふたりめ、ということ。
どちらも、お客さん、というか、同時に友達でもあって、同業者だったり仕事仲間だったり、同じ趣味や好きなことを共有する人、という感じの相手だ。

 

きょう訃報をきいた人の死にたいしては、先日亡くなった人への思いとだいたい同じだと思う。くわしいことはそのときの日記(HPのほう)に書いてある。
だから、HPにではなくて、こちらのほうに書く。(HPにも、きっとそのうち何かは書くだろう。)


さくらももこさんにたいしても、たぶんだいたい同じだ。
(西原にたいしてだと、ちょっと違う。そのことは書かれたものを読めば完璧にわかるだろう。)

 

なんだろうね。僕が詩を書くというのはこういう時なんだけど、むしろ今はまだそこに至っていない。
そういえば西原くんのことを詩にしたことはないと思う。いつかそういう気分にもなるのだろうか。
いや、直截には書いていないけど、2011年以降の僕の詩のなかにきっとものすごくちりばめられている。
書けない、ということは、常に書いているのだ。僕の場合、この場合は。

 

死と詩って言葉遊びをしたいのでもないが、僕にとったらけっこう近い。

 

生きるということは非常に散文的である。
死ぬことは詩の極地だ。
だからタナトスとかメメントモリって言葉をみんな好きなんだろう。
生きるということが散文的すぎるから、
詩をもとめて死を想うんだ。

 

僕はこの秋34になる。死んだふたりのおおむねあいだくらいの年。

だからなんだということもないが、そういうことを考える瞬間、それは詩、詩情、詩的……なのだと考えている。