ペンギン村からおはこんばんちは

右向いて左向いてばいちゃ、ばいちゃ。 

僕は今でも、ちいさいころ、夕方にやってたアラレちゃんの再放送を、熱心に見ていた風景を、思い出せます。 

ちいさいころ、ドクタースランプの単行本を、寝っ転がって読んでいた感覚を、おぼえております。 

それは当時はべつに意識していたか、そうでないかわからないけど、「めっちゃんこ好き」だったんですね。 

その「めっちゃんこ好き」は、とても原始的な気持ちで、根本的で本質的で、大切だと思っている。 

人間は、10歳くらいには大人になってしまう。大人になると、「本質」から離れる。 

それはもちろん悪いことではナイ。自立するには、いちど「本当のこと」から離れないといけない。 

逆にいうと、10歳くらいまでは、それに触れることができる。 

「10歳くらい」の時に触れたものが、思春期以降の人格を形成するのには、最も重要だと思う。それはわりと、一般的に言われることだ。 

で、そっから思春期にかけて、(オタクは)たくさんのものを吸収して、おおきくなっていく。 

でも、実はそれは「本質」みたいなこととは、直接の関係がない。 

10歳くらいのときから触れ始めるものは、実は「生きていくため」のものなのではないか、と、いま直観的に思いついた。 

どういうふうに生きていくのか、ということを、考えるための材料を、10歳くらいから集め始めるのだ。 

10歳くらいまでは、生きるとか生きていくとか、そういうこととはあんまり関係のない、もっとわけのわからないものを集めている。 

10歳くらいになると、もう、道ばたに落ちている硝子の破片を、拾わないかもしれない。クギなら拾うかもしれない。そんなイメージ。 

僕はアラレちゃんを、たぶん10歳よりちょっと前に見ていて、それを、わけもわからず好きでいた。 

(再放送の時期を特定したくて調べてみたけど、わからなかった。でも東海テレビでは鬼のように再放送されていたらしい。そりゃそうだよな〜。) 

ペンギン村に「生き方」はない。 

だからこそ、10歳より上になると、もうアラレちゃんがわからないのかもしれない。 

用無しになるのかもしれない。 

(注意してください、いまだいぶ、てきとうな、おもいつきを書いています。)

 

(ところで、ここでいう「10歳」というのが、かならずしも実年齢をさすものではないということも、書き添えておきます。)

 

ペンギン村には、「生きるために参考になるもの」などない。こじつければいくらでもあるのだろうが、そんな考え方はまちがっている!と思う。 

ペンギン村には、もっとはじまりのものがある。 

ドラゴンボールには、「生き方」があって、僕はあの漫画を、教育漫画だと思っている。本当に鳥山先生は、ひょっとしたら世界でも有数の、教育者なのかもしれない。 

でも、ドラゴンボールのそういう部分は、10歳くらいからわかりはじめることなんじゃないかな。 

アラレちゃんには、ペンギン村には、「生き方」ってのがないから、「教えてくれる」ものなど、なにもない。ただペンギン村というものがあって、それが、何かとてもすてきなものだ、というだけのこと。 

だから僕は、ドラゴンボールについて語ることはいくらでもできるけど、アラレちゃんについて語ったことは、ほとんどない。 

読み返すことも、実はほぼ、ない。すっっっごくむかしに、小学校の同級生に「かりぱく」されて、いちおう買い直したんだけど、14巻だけそろわなくて、「そろったら読み返そうかな」と思いつつ、もしかしたら十何年とか過ぎちゃって、だからぜんぜん読んでない。アニメも観てない。でも、最近アラレちゃんの話をしたり、アニメをちょっとみたり、まんがをぱらぱらしていると、もう、細部までほとんど全部、覚えていますね。何十回読んだか、わかんないからね。 

でも、それは正解だったんじゃないかな。頭でっかちな時期の自分が、アラレちゃんを読んでしまったら、へんなふうに語ってしまったかもしれないもんな。わからないけど。 

それに、べつに語ることが悪いことでもないけど。 

ペンギン村はずっと僕の中に、当たり前にあって、だからべつに読み返す必要もなかったんだよね。たぶんそれだけなんだね。 

ペンギン村は「材料」じゃなくて、もうそれ自体完成されたものだから、ほかのものと混ぜる必要もなくて、だから何もしなくて、よかったんだ。 

「どうやって生きていこう?」と考えるときに、ペンギン村はいらないの。もう、知っていることで、それは絶対に変わらないから。 

10歳よりも前から、「めっちゃんこ好き」だったから。 

だから、「ペンギン村のように生きていこう」は、思わない。 

「僕はペンギン村が好きだ!」だけがある。 

「生きていく」は大人の話。 

なんにも言葉にはできないけど、ペンギン村は、あって、好き。 

11ぴきのねこ』を読んだって、なんの「参考」にもならない。 

でも、そういうもの。 

僕はむずかしいことをめちゃくちゃ考えるし、言うけど、 

それは「生き方」に関することで、 

ペンギン村は、じつはあんまり、ちょくせつは関係ない。 

でも、ちょくせつじゃないところで、ペンギン村は、 

あるし、好き。 

だから、常に一番くらい、大事にしている。 

最近そう思う。 

アラレちゃんのことを考えると、10歳より前のことを思い出す。 

それは「懐かしい」ではないし、 

「子どもっていいな」「子どもの世界っていいな」でもない。 

「生き方について考えなくていい、あの時代はよかった」でもない。 

断じてない。 

ただその頃に、アラレちゃんを好きだった自分が、愛しいし、 

出会えたことを幸福に思うし、愛知に生まれてよかったし、 

家族にも感謝だし、 

やっぱりドクタースランプは好きな作品だ。 

論理と関係のないところに「根本」があって、 

それは「前提」よりもさらに基盤にある。 

そこにペンギン村がある。 

何が言いたいのかっていうと、 

こんな当たり前のことを忘れそうになることも、やっぱり年を取るとあるんだ、ってことです。 

いちばん大事なのは何か?と聞かれたら、それはいろいろ思いつくけれど、 

もしかしたらペンギン村なんじゃないの? 

って。 

そう思えることが、自分の人生の質を支えているんじゃナイノ? 

って。 

そうじゃない、「10歳より上のこと」ばかりを考えていると、頭がパンクしちゃうの。それが仕事みたいなもんだから、しかたないんだけど、 

でもやっぱり、ペンギン村を、絶対に忘れちゃダメだね。 

つらくなったり、間違ったこともしてしまうけど、 

ペンギン村が好きなのだ。