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少年Aの散歩

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「きょうからお前も友達だ」

 僕は『少年ガンガン』という雑誌を、創刊した1991年4月号から2001年頃までの十年間、愛読していた。雑誌には「色」があるもので、僕は『ガンガン』の色が好きだった。ガンガンにとどまらず、エニックスという会社の出していたマンガ雑誌の「色」がみな好きだった。

 その「色」について、かつてどこかにこう書いた。「それは結局のところ、ドラクエだ」。
『ガンガン』の創刊号の表紙には、『ドラゴンクエスト列伝 ロトの紋章』の主人公、アルスが大きく描かれていた。エニックスといえば『ドラクエ』の会社なのだから、当たり前のことである。初期の看板作品はこの『ロト紋』で間違いない。
 また、初期のガンガンには『ドラゴンクエスト 4コママンガ劇場』出身の作家が多かった。もともと『ドラクエ』というRPGに親近感を持っている人が多かったわけだ。読者なんか、もっとはっきりとそのはずだ。だから初期のガンガンのヒット作には、ドラクエっぽいものが多い。
 具体的にいうと、「複数人でパーティを組んで旅をする」である。
ロト紋』を筆頭に、『ハーメルンのバイオリン弾き』『Z MAN』『魔法陣グルグル』などが顕著にそうである。これはやがて『刻の大地』において最盛を迎える(ということはその後は、衰えていく)と僕は思っているのだが、その件についてはまたいつか。

「複数人でパーティを組んで旅をする」という、ドラクエRPGが、90年代ガンガンの「色」だったと僕は考えている。
 ところが、初期のメガヒット作で、これにまったく当てはまらない作品がある。『南国少年パプワくん』だ。『突撃!パッパラ隊』もそうである。これらは「旅」とは無関係ながら、確かに『ガンガン』のもう一つの「色」であった。こっちの系譜はたぶん、後に『浪漫倶楽部』などに流れていくのだろう。
「こっちの系譜」を象徴する台詞が、あまりにも有名なこれである。

「きょうからお前も友達だ」(『南国少年パプワくん』)

 思い出すのは、『浪漫倶楽部』の第二話『雨のロンド』。
「友達」のいなかった月夜(つくよ)という少女が、浪漫倶楽部に入部するエピソードである。
 この話において、月夜は(おそらく中学校生活では)初めて、本当の「友達(仲間)」を得る。もちろん、浪漫倶楽部のメンバーだ。
 僕が個人的に『浪漫倶楽部』がとても好きだから、あえて強調するだけといえばそうなのだが、ここにパプワくんの言う「きょうからお前も友達だ」というフレーズを重ね合わせることを、どうか許してもらいたい。


「複数人でパーティを組んで旅をする」「きょうからお前も友達だ」この二つの価値観(?)が、当時の『ガンガン』において支配的だった、と言うことは、さすがにというか、いくら何でもできない。ただ、僕はそういう作品がとても好きで、それを味わうために読んでいたのは確かだと思う。そればかりだったわけではないだろうが、そういうところはあったはずだ。無視できないくらいには。そういう作品が雑誌を支えていた、という事情は、きっとあった。


 それで、もう一つ僕が好きでたまらない作品、『刻の大地』なのである。
 この作品を僕は、少なくとも個人的な趣味としては、90年代の『ガンガン』における一つの完成として見る。一つの「頂点」として見る。
 なぜならば、この作品こそが、『ロト紋』と『パプワくん』のそれぞれの色がちょうど調和したような存在だからだ。

刻の大地』は、「複数人でパーティを組んで旅をする」が形式としてありながら、「友達」というテーマを常に強調する。主人公の十六夜という少年は、どんな相手でも、モンスターでもラスボス(邪神竜ディアボロス)でさえも、「友達」、あるいは「友達になれる」と信じている。
「魔物(モンスター)が滅んだ世界が平和なのではない 人間と魔物が共存する世界が本当の平和」とは、ザードという登場人物の言葉だが、これを地で行っているのが、十六夜なのだ。もちろん魔物は凶悪であり、それゆえ危険な目にも遭いまくるわけだが、それでもめげずに十六夜は「友達」と主張し続ける。
 激しい戦いの最中であっても、十六夜は、自分を傷つけた魔物に寄り添い、「ごめんね」と言う。
 そして魔物は、それで穏やかになったりもする。(第一話)
「きょうからお前も友達だ」である。

 しかし、なんでなんかはともかくとして、この作品は未完に終わる。
 なんでなんかはしらないが、それは本当にただ象徴として、「この路線」の終わりだか、限界だかを意味していたのだろう。
 それと時を前後して、僕の好きだった「色」はほとんど完璧に失われていった。



 もう少し考えてみると、ここでちょっと面白い事実にぶち当たる。
「複数人でパーティを組んで旅をする」と、「今日からおまえも友達だ」が、同時に存在するウルトラヒット作品が、『週刊少年ジャンプ』誌上で、1997年に始まっているのだ。
ONE PIECE』にござる。

刻の大地』の連載はその約一年前、1996年に始まっている。
 さあ、この似て非なる(に違いない)二つの作品の、決定的な違いというのはなんなんだろう。
 どちらもいわゆるハイ・ファンタジー、純然たる別世界のお話だ、という点でも共通している。
 なぜ、『刻の大地』は永遠なる「未完の大作」となり、『ONE PIECE』は83巻を数えるのか。
「友達」と「仲間」という言葉の違いだろうか。
 戦う相手が人間か、魔物か、という差だろうか。

 作者が違うから、当たり前だというだけの話だろうか。
 夜麻みゆき先生が『刻の大地』を描けない理由がわからない以上、考えるだけ無駄だろうか。

 しかし一つだけ、僕にとっては考えるに値することがある。
 なぜ僕は『刻の大地』が好きで、『ONE PIECE』のことはそれほどには好きでないのだろう。


 たまたま『刻の大地』の一巻を開いたら、「ジェンドはダークエルフかもしれないケド だったらダークエルフじゃないよ ジェンドだよ」という台詞のところが開けた。
 ルフィだったら何と言うだろう?
「ジェンドは仲間だ」と言うだろうか。(ベクタ会食の「セリスは仲間だ」を思い出しますね。)
 そういえばここで十六夜は「ジェンドは友達だよ」と言わない。
 むしろ、ジェンドが迫害されるのを止めに入ろうとしたカイは、「うるせぇ!お前仲間か?」と糾弾される。仲間であると主張することは、ここではむしろ逆効果だった。最後にカイは「仲間である俺の責任です」「町から出ていきます」と土下座する。
 仲間であるとか友達であるということは、その絆の内側においては意味があっても、外側にいる人にとっては、「連帯責任を負うべき者たち」でしかないのかもしれない。
 そういう意味で、ルフィたちってのはやっぱ海賊ってことか。(まだ20巻までしか読んでいないが、これから全巻読破するつもりである。)

 思えば『浪漫倶楽部』の月夜のエピソードも、「友達」という言葉で繋がることの危うさを描いたものだったし、『パプワくん』における「友達」もはじめは上っ面だけの空虚なもので、パプワとシンタローとの間に次第に、少しずつ芽生える友情、というものがたぶん、作品全体を貫くテーマだった。(別れのシーンは本当に辛かったなあ。)
 仲間とか友達という関係ができると、そこに内と外ができてしまう。
 それが最大の問題なのである。


 国ができれば国境ができる。
 その国境の外側は、その国ではない。その国から見たら「別の国」になってしまう。
 たぶん争いは起きやすくなる。
 だから「ジェンドだよ」っていう言葉が、あそこでは最も優しかったんだと思う。