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少年Aの散歩

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禁欲趣味でいこう!/なぜか大江イオン先生の話

 ストイック。

 欲望を制し、自分を厳しく律する。
 それができたら苦労はしない。

 もうずいぶん長い間、憧れていたように思う。
 挑んでは挫折し、自堕落へ舞い戻る。
「自分には無理なんだ」と諦めて、また布団に入る。

 具体的なことを書く必要もなかろうが、要は、だらだら、ごろごろ、漫然と時を過ごしてしまって、「タイムイズマネー」みたいな考え方にはほど遠い。
 そしてそのことを、べつに悪いとも思わない。
 狭い日本、そんなに急いで何処へ行く、気楽にのんびりやっている。
 やらねばならないことだけをやって、やらなくてもいいことは極力避ける。
 楽しいことは率先してやるが、楽しくないことはやらない。
「楽しくないけど、あとあとになって意味があるかもしれないこと」については、その「意味」を慎重に吟味し、確信が持てない限りは、動かない。
 それでとにかく寝る。眠る。または寝っ転がってインターネットでもする。
 いわゆる「自分に甘い」、ストイックでない人間の多くは、そのように暮らしているのではないか。「意識が低い」とも言う。

「意識が高い」人は、「時間の効率的な使い方」なんてことを言う。「時間をお金で買い、その時間でまたお金を稼ぐ」みたいなことを言い出す。恐ろしい。そんなにガツガツして何になるというのか。柔軟性のない人間になって、人より早く年を取る。そんなにしてまで欲しくなる、金というのはいったいなんだ? そんなふうに思って、「僕はいいや、時間は時間で勝手に過ぎていくものだ。自分と時間とはとくべつ関係がない」などと壮大な逃げ口上を唱えてきた。
 今もその感覚はまったく変わらない。急いだってしょうがないから、ゆっくり歩いていこうじゃありませんか。その中に幸せがあればそれでいいし、なかったら悔いるまでのこと。ふんわかいこうよ、ふんわか。

「ダメだよ、未来のために、今のこの時間を有効な“投資”に回さないと。」と、もっともなことを言う人がいる。本当にもっともだ。人は老いるのだから、若いうちに投資しておかないと、やがて素寒貧になる。この場合の「投資」とは、文字通りの金融的な投資のみを指すのではない。正社員になることも投資だし、子を産み育てるのも投資になり得るし、資格を取ることも、職歴を重ねることも、能力を磨くことも、すべてが投資である。その投資が十全であれば老後は安泰で、キリギリスのようにサボってしまえば暗黒となる。
 僕はこの「投資」について無頓着なわけではない。むしろ人一倍意識している。僕はたぶん上記のような一般的な意味での「投資」にはあまり向いていない。だから僕なりの「投資」を積み重ねていくしかないのである。それについては時に焦りながら、じっくり考えて生きている。自分が「これは投資だ」と信じることに、身を投じながら。

 と、格好良く言い切りたいところなのだが……。
 僕は、それが「投資」になり得るからといって、まっすぐそれに全力投球できるほど、できた人間ではないのである。
 積極的欲望(うまいもん食いたいとかいい女とやりたいとか)が全然ない代わりに、消極的欲望(寝たいとか何もしたくないとか)がものすごく強い。ずっとぼんやりしていたい。楽なようにしていたい。そのためには積極的欲望を犠牲にしたって構わない。「投資」などという前向きなニンジンでは動けない。

 それで、「もうちょっとストイックにできたらいいのになあ」と考えたりするのである。せめて、自分が「これは投資だ」と信じることについてくらいは、厳格にやっていけるようになりたいものだが……。
 何よりまずは信心が足りない。「これは投資だ」と、信じ切れていない。「投資(笑)」とさえ思っている人間なのだから当たり前である。これはもうしょうがない。「投資信仰」に素直に没入できるほど単純でもない。
「投資だ。だからやる」という考え方は、すなわち、「やらねばならないこと・やるべきことを遂行する」、ということだ。そういうのは、「宿題が出た。だからやる」と単純に受け入れて、ちゃんとやってきて提出できる立派な人間のやること。僕は宿題も予習もほとんどやったことがないので、この考え方にはまったく、そぐわない。
 そういう素直さがないと、なかなかストイックにはできない。

「宿題は一切やんなかったけど、好きなことにはいくらでも没入できる」という人もおりましょうが、それはもう才能。僕だって、このホームページを更新することくらいなら、労せずできる。人によっては、「あんなに長い文章、一円ももらえないのによく書くよな……」と思うのだろうけど、頑張って書いているわけではなく、「不特定多数に向けて書きたいことが割とあって、それを書くことが割と苦ではないという才能」が僕にある(育った)という話なのだ。
 が、すでに育った才能の範疇から外れることについては、本当に全然できない。

 それで、「ねばならぬ」ということを外すことが肝要かな、と思い至った。

 才能というのは、基本的には「苦ではない」という状態が保てることで、それが「楽しい」とまでなったらほぼ天才。そこに「うまくいく(他人に認められる)」が加われば、社会的にも広く「天才!」と言われるわけである。

 そこに持って行くためには、まずは「苦ではない」にならねばならない。
 ストイックであることが、苦ではない状態。
「ストイックであらねばならない」と考えることは一切やめて、「ストイックであることもまあ悪くはなかろう」という程度にする。
 ……うーん、なんだか自己啓発本みたいな感じになってしまうな。まあそんな側面もややありつつ、あくまでこれは遊び。結果や成果は求めない。
 趣味の一つとして、「ストイック」というものはありうるのではないか? と。禁欲趣味。いわゆる「ONAKIN」と同じである。
 何もやる気が出ず、ごろごろしている時、「ハァ!」とか叫んで立ち上がり、黙々と家事をしたり仕事したり本を読んだりする、というのが、趣味のように楽しくなればいいし、少なくとも「苦ではない」という状態になればいいのだ。
「なんか暇だし、ストイックなことでもやるか」みたいな。
 ここで「いかんいかん、ストイックにせねば」とか思ってしまうと、もう、絶対に寝る。「ま、暇だし」くらいの温度がたぶん、ちょうどいい。


 大江イオン先生の『小説 刻の大地』は98年4月に発売されている。その「あとがき」を読んで以来、「ねばらなぬ」、ということについてずっと考えてきた。そしていつからか、できるだけそれに縛られないようにと努めてきた。
 今、その文章を読み返して、改めてその素晴らしさに感動した。僕は、18年前からずっと思っているのだが、この人に会ってみたい。もし、十六夜、カイ、ジェンドのことを彼が覚えているのなら、同級生のことを懐かしむように、彼らの話をしたい。あの頃ともに笑ったり、泣いたりした「仲間」として。

 こんなふうに引用するのが不作法であることは承知しているが、今では手に入りにくくなってしまった本だし、この文章をまたべつの誰かが読むことで、きっと何か良いことが起きる、と信じて。また、これによって原作(夜麻みゆき先生)の読者が増えてくれることも願って。

 

 

 そのころ、俺は何者でもなかった。いろいろなことに手を出してはいたが、どれも上っ面だけで手応えはなく、淡い霧の中をふらふらと進んでいるような実感しかなかった。
 二十歳を過ぎて、何者でもない、何者かになれる予感がないというのは、結構ヘビーな状況だ。よけいに俺は苛立ち、ろくに前も見えないのに、見てもいないのに、駆け出して、激しく無様にすっころぶということをくり返していた。そのまま行けば、おそらく結果はお定まりの、カスとかゴロツキとか腰巾着とか呼ばれる類の人間になっていたことだろう。根拠のない自信。それだけが俺の財産で、武器であると同時に枷でもあったからだ。
 今でも、あの夜のことをよく覚えている。煙草の甘いにおいとか、薄暗い照明とかいったものといっしょに。――俺の隣に座っていた人が言った。「子供」
 こうあらねば、というイメージに縛られすぎだというのだ。自分がありたいと思うイメージと、ねばならぬと思うイメージは違うのだと。俺は彼女に話したことを後悔した。見ず知らずの人間に、自分の焦りなど打ち明けるつもりはなかったのだ。最初は。
 なぜ、そんな話をしたかというと、単に隣にいたから。俺が結構酔っ払ってて、レゲエが流れていたから。何より、彼女に話していると、妙に気持ちよかったからだ。頭の中のぐるぐるこんがらがったものを、するするとほどかれていくような感じがあって、俺は喋りまくっていたのだった。その間、彼女は時たま相づちを打つだけで聞いてくれていた。
 だから、彼女がわかりきったことを言ったときには、がっかりし、腹を立てた。そんなこと、とっくに知っている。だが、ねばならぬ、と思わずに、どうしてどこかに行けるだろう。
 うっせーよ、なんて低くつぶやいてみせたと思う。一方的に見下されるのは、俺の小さなプライドが許さなかった。失点を挽回しておく必要があった。だが、彼女は笑っただけだった。赤ん坊をあやすみたいに。――俺は悟ったのだった。酔っ払いの悟りだから、ごくごく簡単なものだが。「あ。かなわねーや」
 自分を制御する能力。落ち着き。持久力。そんなものが、俺には決定的に欠けていると思い知らされた。そして、それこそが俺をどこかに連れていってくれるはずのものだった。
 俺は尻尾をまいて、じゃなく、うつむいてグラスに鼻をつっこんだ。
 それがすべての始まりとなる。
 数日たって電話がかかってきたとき、聞きづらい携帯だったにもかかわらず、俺はすぐに彼女の顔を思い出すことができた。少し悔しい気もしたが、声に出てしまったので今さらごまかしはできない。だから、俺は無愛想に要件を訊いた。
 彼女は言った。「小説、書きませんか」
 友人は嘘だと騒いだが、これは真実である。

 その電話から、これが三冊目の本となる。一冊目は無我夢中で書いた。二冊目は初めて読者を意識した。今回は、自分について考えることになった。
 これから先の俺が、字を書いて生きていくかどうかは、まだ定かでない。だが、十六夜とカイ、ジェンドという三人に出会えたことは確実に俺を変えたと思う。三人のうち誰かに自分を見いだしたということはない。三人は皆、俺である。ハイダルではないが、ずっと「彼らならどうするか」「彼らならどう思うか」と考え続けることになるだろう。彼らが俺の中に宿っていることに気づいたおかげで、俺は半歩先が見えるようになった。
 相変わらず、転んだりぶつかったりすることの多い毎日だが、前よりはましになったんではないかと自己評価している。そして、ねばならぬと思う気持ちの危うさにも気づき始めている。つまり、そこに到達した自分の予想図は確かに眩しいものだが、もがき前進する姿にもそれなりに意味があるってことだ。ねばならぬ、と思うことは途中の過程を省いてしまう。一直線に瞬間的に、そこに至らねばダメだと思いこむ。そんなことはないのだ。
 俺は、何者かになりたい。何者かになろうという気持ちを失わないでいたい。それといっしょに、いまだ何者でもない俺を愛する。

 最後に、電話の主であり、導き手であり、タントーさんであるK女史に感謝を捧げたい。彼女の強さ、しなやかさは、俺にとってはずっと驚異であった。彼女はこれからも俺を照らす光、俺を問いつめる鋭い刃、俺を暖める火である。         大江イオン

 


 青臭かった若者が、「大人の女性」との邂逅により少しずつ変わっていく。その様が、短い文章の中にくっきりと刻み込まれている。
「いまだ何者でもない俺を愛する」という言葉は、本当に感動的だ。
 何者でもないが、何者かになりたい若者は数多あれど、そんな自分を愛する、と宣言できる人はどれだけいるだろうか。きっと普通なら、焦って、「俺はこんなもんじゃない」とか、「本当の俺はもっと」とか、「こんなのは本来の俺じゃナイ」とか……全部同じことだけど、そんなふうに思っちゃうんじゃないだろうか。
 僕は、久々に読み返してびっくりしたのだが、正直言って、この時の大江先生の気分と、たぶんかなり近い気持ちで生きている。
 僕は「途中の過程」を愛するし、そこにいる「いまだ何者でもない」自分を愛する。

 よく僕は「目標」について否定的に語るが、その原点の一つはここにあるだろう。
 どうなりたいか、とか、どうあるべきか、ではなくて、今どうあるのか、ということが、よりいっそう大切だと僕は思う。今日を生きた者にしか明日は来ない、というのと、同じようなことだ。
 未来は今と地続きなのだから。

《自分を制御する能力。落ち着き。持久力。そんなものが、俺には決定的に欠けていると思い知らされた。そして、それこそが俺をどこかに連れていってくれるはずのものだった。》

 そうなのだ。それが「ストイック」というものの、洗練された姿なのだ。
『小説 幻想大陸II』のあとがきには、「大江が三ヶ月も一つの仕事をやり続けた」ということを友人から驚かれた、ということが記されている。
「ねばらなぬ」とこれまで思っていたことから離れて、「漫画のノベライズ」という、思ってもいなかった仕事に取り組んだ。だからこそ、「続いた」のかもしれない。


 大江先生はこの後(98年10月)四冊目の小説を出し、この名で本を出すことをやめた。彼について僕はこれ以上何も知らない。
 今は何をなさっていて、どんな人になっているのか、知りたいが、知らなくてもいい。それは大きな問題ではない。答え合わせなど、「ねばらなぬ」の足しにしかならない。
 ただ、「同窓会」はしてみたいけど。


「ねばらなぬ」は「主義」であり、頑なすぎる。
「ま、暇だし」という「趣味」ならば、もっとやわらかく生きていけるだろう。


 僕は僕で、趣味としての禁欲を気ままにやりながら、転がり込んでくるものを柔軟に受けとめていこう。
「持久力をつけなければ」と思うことは、かえって落ち着きがない。
 自分という地点を疑わないこと。それだけを心がけていれば、あとは優しく笑うだけである。

 

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