少年Aの散歩

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「生活」を描いた映画『この世界の片隅に』と、「生きる」を描いた原作と

 本稿は本当は昨日アップされるはずだったのだが、一昨日の記事を書いたあとに、いろいろ考えるところがあって、いったん保留した。
 時を置いて考えても、『この世界の片隅に』は、本当に素晴らしい映画だったし、それに対する賛辞の言葉は惜しまれなく注がれている。それで原作を手に取る人もたくさんいて、こうの史代先生の読者はどんどん増えていくだろう。だったらぜんぜんそれでよくて、僕が何かを言う必要なんて何にもないのではないか、と。

 

 結城恭介先生が、「【書評】心あらため……」という記事を書いている。

「良い評論とは、誉めてある評論である。悪い評論とは、それ以外の評論である。」

 という言葉を引いて、書評を始めるにあたっての「心あらためとしてこれを記す」としている。この言葉はずっと、胸の内に貼り付いている。
 映画『この世界の片隅に』を語ろうとすると、どうしても「誉める」以外のことをしてしまいそうなのだ。そんな文章を世に出す意義などあるのだろうか。もちろん、けなすつもりなど一切ないのだが、「誉めるわけでもけなすわけでもないが、言いたいことがある」という絶妙な心情をうまく伝えるのは、難しい。
 だったら、黙るのも一つだ。
 何かを書くのなら、それを読む人に何かポジティブな影響を与える可能性の高まるよう配慮しなければならない、というのを、いちおう教育者の端くれとして常に意識している。
 それができそうもないときは、書く必要はない。

 しかし、僕のもう一つの信条は、「歩きつづける」ことだ。
 だからこの日記のタイトルはいつからか「少年Aの散歩」。
 終わらない思春期の思索。
 意味などわからなくても、ただ歩く。人は歩みをとめた時に年老いていく、とアントニオ猪木が引退のときに言っていた。

 結城先生も同じようなことを書いているが、作品というものに、善し悪しなどないのかもしれない。ただ人それぞれに、相性とか、出会うタイミングがあるというだけで。
 それはひょっとして、「書かれたもの」について全般に言えることではないだろうか。
 僕が書いたくだらない評論まがいの文章なんて、ある人にとっては取るに足らないものであろうが、十年後のその人にとっては何かポジティブな影響を与えうるかもしれない。また、ある人にとっては、賛同するかはともかく、何か考えるヒントになるようなものかもしれない。
 人を傷つけない言論など存在しないが、人を勇気づけない言論も、もしかしたら存在しない。
 どっちに転ぶかなど、わからない。

 だからとりあえず、書いてみよう。正直に、ただ思ったことを。
 で、最後にはちゃんと「誉める評論」にしますので、よかったら読んでみてください。

 


●映画『この世界の片隅に』感想


 上映が始まって、まず「なんて完璧な映画なんだろう」と思った。文句の付け所のない大傑作であることは、冒頭の数分でよくわかった。
 しかし同時に、オープニングテーマがザ・フォーククルセダーズを原曲とする『悲しくてやりきれない』であったことに、違和感を覚えた。
 そういう物語になるの? と、少し疑問があった。
 もし、作品に通底するテーマが「悲しくてやりきれない」という気分であるとしたら、あまり好きではないな、と思った。でも前述の通り僕は映画に対して始終「すばらしい」と思っていたものだから、「たぶんこの主題歌の選定にも意味があって、最後には納得出来るものになるのだろう」と考えることにした。
 実際、どうだったかというと、なんで最初が『悲しくてやりきれない』で始まるのかは、よくわからなかった。この曲が終戦直後のすずさんの心情にマッチしているのもよくわかる。何よりもまず名曲だし、とてもいいカバーだ。だけど、オープニングテーマにまでしてしまうことへの違和感は、ぬぐいきれなかった。「悲しくてやりきれない」というような気分でまとめてしまうような作品は、悲しい作品ではないだろうか。

 

私が『picnic album 1』(2010年発売)というカバーアルバムを出したとき、監督にCDをお渡ししたんです。多分監督は、その頃から『この世界の片隅に』の準備を始めていたと思うんですけど、そのアルバムに入っていた“悲しくてやりきれない”という曲が、主人公であるすずさんの心情にすごく合っているということで、ずっと聴いてくださっていたらしくて。
コトリンゴインタビュー)http://www.cinra.net/interview/201611-kotringo 

 

 この作品は、どうも制作のかなり初期の段階から、「悲しくてやりきれない」という気分が、意識されていたようだ。


 そして上映の途中から、「ああ、戦争映画になってしまっている」と思いはじめた。見終わるまで、その気分は変わらなかった。

 四人で観たのだが、僕を除く三人は、原作を読んだことがなくて、上映後に、口々にこんなことを言った。
「心臓に悪い映画だった」
「重い」
「重かったですね」

 

 たとえば、晴美さんが亡くなるシーンがとても強調されていた。
 原作ではもうちょっと淡々としている。
 映画的演出。暗闇になって、変な模様? みたいなものが出てくるのは、原作に比べればちょっと強めの演出に思えた。
 あんなに強調されると、なんだか、悲劇のために殺されたような印象を受けてしまう。
ONE PIECE』で、ゾロの設定固めのためだけに(僕はそう思う)出てきてあっけなく死なされる「くいな」というキャラを連想した。
 物語の都合で殺されるような存在は、一人だっていないほうがいい、フィクションだから、架空の人物だからいい、というわけではない、と僕は思う。

 晴美さんの死は、まず径子さんやすずさんにとって重大なもので、観客にとって重大なものではない。僕らが勝手に、我が物としてよいものではない。
 僕はそう思うのだ。だから原作では、あのくらいの描き方にとどまっているのだと。
 映画では、たぶん、晴美さんが死に、すずが右腕を失うシーンを、一つの「山場」としていた。そういうふうに演出していた、と思う。それは映画としてはとても正しい態度だとは思う。
 だが、人生に山場などあるだろうか。生活に、日常に、ことさらに強調されるべき山場はあるだろうか。一人の人間の人生についてならばいざ知らず、「時間」というものの中で生きる、複数の人々について、「山場」というものは設定できるだろうか。

 爆発のあとで、寝込んでいるすずさんの夢(だか回想だか想像だか)が描かれる。原作では7ページ・28コマ(薄い線で囲まれたコマのみをカウント。最後の晴美さんと花畑の1ページも1コマとして数えている)にわたるその夢の中で、晴美さんが出てくるのは7コマ(側溝と下駄のコマを入れて10コマ)にとどまる。

 いろいろなことがあるのだ。
 いろいろな人が生きているのだ。
 その中で、晴美さんは亡くなった。
 ここで晴美さんのことだけを描かないバランス感覚は、本当にすごい。
 映画では、一瞬、ほんの一瞬だが、その美意識を崩してしまったように思う。
 夢に入るまでの数秒か、せいぜい十秒ほどの間。
 観客に、「晴美さん(もしかしたらすずも)は死ぬんだけど、準備はできてる?」という時間を与えた。
 そこで晴美さんの死は強調されて、「悲しむための死」になってしまっては、いなかっただろうか。
 彼女たちの生活から、晴美さんの死をコピペして、観客の胸に貼りつけてしまった。

 

 話がかなり横道にずれてしまうが、『機動戦士ガンダム0080 ポケットの中の戦争』で、バーニィという主要キャラが最後、亡くなってしまう。それがゆえ「一流の悲劇」(結城恭介先生によるノベライズあとがきより)となったのは確かだが、僕はバーニィが死んで、本当に悲しかった。ずっと泣いていた。何も死ぬことはないではないか、と思った。フィクションだから殺していい、のではなく、フィクションだからこそ、殺さないことができる。バーニィモビルスーツに乗っていて、コックピットを貫かれて死ぬのだが、もしアレックスの攻撃がちょっとでもずれていたら、助かったはずなのだ。
 結城恭介先生は、小説版の最後で、バーニィを生かした。奇跡的に意識を取り戻したのだ、という一節を、はっきりと書いた。僕はそれで、本当にこの作家のことが大好きになってしまった。
 これにより、「一流の悲劇」は「三流のハッピーエンドに堕ちる」(前述のあとがきより)ことになったかもしれない。それでも、僕にとっては救いだった。自作を「三流」たらしめる危険を引き受けてまで、結城先生はバーニィを助けたのだ。

 こんな野暮なことは言わないでほしい。「もし最初からバーニィが死んでいなかったら、お前は『ポケット』をそんなに好きにならなかったんだろ?」と。確かに、あんなに泣くことはなかったかもしれない。だけど、「好きなアニメが一本へる」ことと、「大切な友達が死んでしまう」こと、どっちをとるかと言われたら、答えは決まってる。シオン様(『レヴァリアース』)だって、死なぬが良いに決まっているのだ。

 だからもし、映画『この世界の片隅に』で、晴美さんが生きていたなら、僕は惜しみない称賛の拍手を送っただろう。実のところ鑑賞中、始終それを祈っていたのである。正確にいえば、「原作をずいぶんとはしょっている」ということに気付いた瞬間、「じゃあ晴美さんが死なないエンドもありうるな!」と期待した。
 でも、そうじゃなかった。当然だ。それじゃ「三流のハッピーエンド」だ。売れる映画には、到底ならない。僕の大好きな結城先生の小説だって、決して売れるものではなかった。優しすぎるのだ。

 

 原作をはしょる、ということについて。

 それ自体が問題になるわけは、もちろんない。2時間の映画におさめるためには、当然整理は必要になってくるだろう。結果的に2時間の映画としてまとまった「整理された物語」は、ほとんど完璧なものといえた。

 ただ、「どこを削ったか」というところは気にしたい。あるいは「どこに何をつけたしているか」。それで、この映画がどういう映画であったのか、ということが、少しくらいは見えてくると思う。

 

 映画では、リンさんにまつわるエピソードがほとんどない。

 そこは、描かなくてもいいという判断なのだろう。

 極端なことをいえば、リンさんを登場させないことも可能だったし、周作さんが水原さんにすずさんをあてがう(抱かせようとする、と解釈できる)シーンも、カットすることができた。
 だって映画版は、周作さんが遊郭に行った、ということは、匂いすら感じさせないんだもの。それであの「あてがう」シーンだけがあると、ギョッとするよ。
 あの切り取られた帳面と、エンドロールの後のクラウドファンディングありがとうロールの下の絵だけで、周作さんとリンさんの関係を読み取るのはさすがに無理だ。だから映画版では、周作さんとリンさんとは特に関係がなく、周作さんが遊郭で女を買っていたことも、すずさんは知らない(あるいは、知っていたとしても描かれていない)とみるのが妥当だろう。

 僕が原作『この世界の片隅に』を好きなのは、すずさんとリンさんとの関係によるところが大きい。そもそも「すず」と「リン」はどちらも「鈴」と書けるわけだし、この二人の対比や呼応は、作品のかなり根幹となる部分を支えている。それを映画では、ばっさりと切った。ほとんど。
 すずさんとリンさんは友達なんだけど、すずさんの夫である周作さんはリンさんをかつて買っていて、そのことをすずさんは知ってしまう、というのが原作の設定。すずさんはそれを呑み込みながら、夫と生活を共にし、リンさんのことも友達として大切にし続ける。ここが……なんというか……この作品の凄みの一つだと思うのだが、映画版ではカーット! なのである。なぜか。


 倫理的な問題?


 いやしくも、広島や呉の人たちからも協力を得て制作された「戦時下を描いた映画」なのだから、夫が遊郭で遊んでてうんちゃら~みたいな、そういう内容は、削らざるを得なかったのかな? 小学生にも問題なく見せられる、健全なものにしたかったのかな?
 そういう可能性も考えられる。そうだったら、やだなあ。
 だってそれじゃ、いったい、なんのために『この世界の片隅に』を映画化するのか、わかんないじゃん。「健全なものにしたいからこういうふうに変えます」っていう姿勢でやるくらいなら、ぜんぜん別の作品を作って、そこで「健全」をやればいいもん。
 だから、こういう事情ではないと思うし、もしそうだとしたら、すっげーやだ。

 では、どういう「事情」があったと僕が思うかというと、それは「リンさんと周作さんとの関係を入れると、わかりにくくなるから」だ。
 話が複雑になる。
 観客に、わかってもらえない可能性がある。
 考えることが多くなりすぎるのだ。

 僕は、そここそが原作の魅力だと思っている。リンさんと周作さんのことを知ったすずさんが、何を思うのか。何を思いながら、周作さんと暮らすのか。何を思いながら、リンさんと接するのか。何を思いながら、水原さんに身体を預けるのか。何を思って、水原さんに“抱かれない”のか。自分を水原さんに「あてがった」(ヤらせようとした)周作さんのことを、どう思うのか。あの口げんかは、どういう気持ちでしていたのか。
 そういうことは、ほぼ、すずさんの口から直接的には語られない。だから、わからない。わからないけど、何かを感じたり、考えたりしてしまう。「文学性」なるものは、そういうところに宿るんだと思う。

 水原さんに「あてがわれた」事件について、すずは周作さんに詰め寄る。

 

すず「でも周作さん 夫婦いうてこんなもんですか? …………うちに子供が出来んけえ ええとでも思うたんですか?」
周作「……そがいなんどうでもええくせに ほんまはあん人(にい)と結婚したかったくせに」
すず「は!? どうでも良うないけえ怒っとんじゃ」
周作「ほーー怒っとるとは知らなんだ」
(このあとしばらく、ふたりの口げんかが続く。)


 これが映画では、ずいぶん違ったやり取りになっていた。

 まず、「夫婦いうて」が「夫婦って」とか、そんな感じになっていたはずだ。この「いうて」と「って」の違いはでかい。前者は「夫婦という肩書きを背負って暮らすことって」とか「口では夫婦だと言っておいて」とかいったようなニュアンスが含まれると思うのだが、後者にはない。こういう細かなニュアンスが省かれるのも、たぶん、わかりにくいからだろう。「いうて」と言ってしまうと、そのニュアンスが断定できなくなる。「って」だと、「夫婦というのは」という、単純な意味にしか取れない。

 また、「うちに子供が出来んけえ」というのもなかったはずだ。「すずに子供ができない」という事情は、たぶんほとんど描かれていない。いちど妊娠したかと思って病院に行ったら、そうではなかった、というエピソードが、ギャグタッチで描かれるのみだった。原作では、妊娠と思ったのは「栄養不足と環境の変化で月のめぐりが悪いだけ」というふうに描かれていて、ページのハシラに「戦時下無月経症」の説明が書いてある。これはリンさんとのやり取りの中で出てくるのだが、そのシーン自体が削られているため、映画には出てこない。
 また、すずがリンさんと周作さんとのことを知ったあと、すずさんと周作さんが性行為を途中でやめる(というふうに解釈できる)シーンがあり、そこで周作さんが「もしかして子供が出来んのを気にしとんか?」と言うのだが、この場面もない。

 リンさんと周作さんの関係が消されているのだから、当然といえば当然なのだが、もしや「健全ではない」ということで採用しなかったのでは、という邪推もしないではない。あるいは、不妊で苦しんでいる方々への(謎の)配慮ででもあろうか。

「ほんまはあん人(にい)と結婚したかったくせに」もなく、その代わりに、これはけっこう忘れてしまったが、「わしには見せん怒り顔を見せとったじゃろう」みたいなセリフがあって、それに対して「だから今怒っとるじゃろうが!」というすずの返答。そこから先は、原作通りにくつしたがどうとかいう言い争いになる。

 ただの痴話喧嘩じゃねえか!(許さんぞ!)

 なんでしょう、複雑な心の機微というか、僕が原作に感じていた「凄み」の部分は、ことごとくカットしていくんですね、この映画では。

 で、わかりやすい「恋愛」にさせていく。

 この喧嘩のシーンはその象徴の一つで、原作ではきわめてきわどい会話だったのが、「これをきっかけに本音をぶつけ合える二人になる」という、恋愛ものにありがちな「雨降って地固まる」場面としてのみ強調される。「初めて感情をあらわに出せるようになったすず。初めて(?)けんかする二人。よかったね、これでこれまで以上に仲良くなったね! 水原さんは噛ませイヌ!」みたいな場面になる。改変された二人のやりとり(「あいつにばっか素直にして!」→「いまあなたにも素直になってるじゃない!」的なの)は、まさにそういう演出である。

 ああ、わかりやすい。わかりやすい。たくさんあったけもの道がすべて潰され、舗装された大きな道路になるように、「男女の愛」というわかりやすい一本道が整備される。

 もう一つ象徴的なシーンは、機銃を避けて側溝に落ちた周作さんとすずが、言い合いをするところ。
「広島へ帰る」と言うすずに対して、その理由を問いただす周作さん。原作と映画の違いはこうだ。※()はモノローグ

 

【原作】
周作「手の事を気にしとんか」
すず「(そうです)」
周作「空襲が怖いんか」
すず「(そうです)」
周作「………………晴美のことか」
すず「(そうです)」
周作「聞こえんわい」
すず「「違います」」
周作「じゃあ何でじゃ」
すず「………………(ほれそうやって ふたりで全て解決出来ると思っているからです)」


【映画】
周作「手の事を気にしとんか。空襲が怖いんか。晴美のことか」
すず「(そうです、そうです、全部そうです)」
周作「聞こえんわい」
すず「違います」
周作「じゃあ何でじゃ」
すず「………………」

 

 細かいところは違うかもしれないが、概ね間違ってないと思う。
 原作では、手、空襲、晴美の話題に対して、それぞれに逐一「そうです」と言葉を挟む。映画では、三つの話題が出そろったあとで、まとめて「そうですそうです全部そうです」と言う。
 これって、けっこう違うと思うんだけど、うまく説明ができない。

 たぶん、原作のほうが「何を言われても『そうです』と思う」ニュアンスが強い。映画版は、三つまでを聞いた時点で初めて、「そうですそうです“全部”そうです」と言うから、四つ目の登場が想定されていない。原作のほうは、四つ目、五つ目に何を言われても、おそらく「そうです」と答えただろう、という気がするが、映画は三つでいったん区切られる。だから、映画では「手・空襲・晴美」で「そうです」の内容は終わってしまう感じがする。原作だと「手・空襲・晴美……」と続いていきそうだ。
 この「……」は「全部」という言葉で表現されている、と捉えることもできるが、逆に「全部その三つのせいです」という解釈だって成り立ってしまう。ここでそういう解釈の多様性を狙っていく必要もあまりないと思うのだが、どうでしょうか。

 最大の違いは、「ほれそうやって ふたりで全部解決出来ると思っているからです」というモノローグのニュアンスが、映画ではまったく使われていないところ。
 このあとも、周作さんと会話しながらすずのモノローグは続き、リンさんの話題を持ち出す周作さんに対して「(あの人を呼ぶこの人の口の端に愛がなかったかどうかばかり気にしてしまうとは)」とすずさんは思う。当然映画ではカットである。※「あの人」とはリンさんのことで、「この人」は周作さん

 こういう、複雑な心情はいっさい語られない、というか、ないことになっているのである。生きるか死ぬかの瀬戸際を経て、周作さんと二人きりになって、しかし心の中では、周作さんを批判したり、白木リンとの関係ばかりを気にしたりしている。この複雑さこそが、原作『この世界の片隅に』の真髄だし、すずさんのあの夢にいろんな人を登場させてみせるのと同じ、きわめてきわどい「バランス感覚=美意識」なのである。※美意識とはバランス感覚、と書いたのは楳図かずお先生の『14歳』


 僕は、原作の『この世界の片隅に』を、本当に、究極に複雑な話だと思っている。それをずいぶんと単純に、わかりやすくしたのが、映画版だ。
 きわめて、すぐれて、単純にしたからこそ、大傑作たり得た、とも思う。だから多くの人にわかって、受け入れられた。
 ただ、「名作」と呼ぶのにはどうしてもためらいがある。
 わかりやすいものは名作たり得ぬのか、といえば、そんなわけはないのであるが、どうも僕はあの映画から、優しさや美しさを受け取れないのである。
(もちろん、かなり多くの人はたぶんそれを受け取っていて、僕が受け取れないのは人格か、タイミングの問題だ。)


 どうしてそうなのか、というのは、このブログに書いてあることが最も近い。

 

YADAGAWA Blog

 こうのさんは「戦時の生活がだらだら続く様子」や、「「生」の悲しみやきらめき」を描いていたのだと思います。徹底的といえる取材で細かく丁寧に描かれていたのは、まさにそれこそが「描くべきもの」であったから。
 ですが、片渕さんはインタビューをいくつか読んでいくとどうもそうではない。「「ご飯を炊く」ということの意味が変わってくる」……ご飯を炊くというのは、何かはよくわからないですが「意味」というものを表現するためのものらしいのです。そして、その「意味」をよりよく伝えるために、徹底的なディティールにこだわる。

 

YADAGAWA Blog

 とにかくディティールを追求する。時代考証を徹底的にやる。でもそれは、もっと大きな何かを表現するためにやったこと。こうのさんが描こうとしたもの、描いたものを、(かなり悪くいうと)「表現技法の一種」として「利用」したのではないかと感じました。そして、監督が表現しようとしたもっと大きな何か(何なのかははっきり分かりません)こそが、マンガとの大きな違いで、そこに違和感を感じたのかもしれません。

 僕は「裏の畑から戦艦大和が見えるところでご飯を炊く」風景の向こう側にある「意味」よりも、「裏の畑から戦艦大和が見えるところでご飯を炊く」姿こそが観たい。楠公飯を炊くことが意味する「何か」よりも、ぶくぶくに膨れてとにかく不味そうな楠公飯とそれをすずたちが不味そうに食べる様子を観たい。デートに誘われて「しみじみとニヤニヤ」するすずの顔を観たい。すず達の生活を「意味」のための小道具にしたくない。

 ...まあ読んだ後観た後に調べた話だから、こじつけのようなものかもしれません。
 でも、こうのさんがすずとその世界を丁寧に丁寧に描いたのは、意味とかテーマとかではなくて、それそのものに美しさがあったからだと思いたいですね。

 


 ……ほとんど全文をコピペしてしまったが、ユニークIDを取れないブログなので、仕方なくやった。仲の良い友達なので許してほしい。(こうやって不特定多数の目にさらされるのも本当はイヤかも知れないが、素晴らしい感想だったので……。文句はうけつけよう。)


 また、監督について「淫らな感じ」とか「誠実というより貪欲」という意見も目にした。貪欲。なるほど。ディテールにこだわり、そこから意味を浮き上がらせていこう、という徹底さは、素晴らしいと思うが、たぶんこうの史代先生のやり方とは違うし、僕が好きなやり方とも違う。
 こうの先生も本当に徹底的にものを調べて書く人だけど、地元である呉市の風景などについては、「そっちは行ったことのない道だから作品には出ていません」と言うような人なのだそうだ(ソースは「マンバ通信」の監督インタビュー)。
 より実感に裏打ちされているというか。より現実を大切にしているというか。架空のものを作るために現実に取材しているのではなくて、あくまでも先にあるのは現実、という意識なんじゃないかな。
 監督はどうも、「これから表現するもの」のために、取材をしたり体験をしたり、しているような気がする。こうのさんは、「実際にあるもの、あったもの」のために描いているのではないだろうか。このへんはほんとにただの直観だけど。

 なんだか、そういうところを感じてしまって、どうしても原作にあるような体温を、僕は映画で味わうことができなかった。
「生きる」っていうのは、そんな単純なことじゃないんじゃないだろうか。
 単純化された「生きる」のレプリカ、ではなくて。

 そう、こうの先生はあとがきにこう書いていた。

 

 そこにだっていくつも転がっていた筈の「誰か」の「生」の悲しみやきらめきを知ろうとしました。

 ただ出会えたかれらの朗らかで穏やかな「生」の「記憶」を拠り所に、描き続けました。


 こうの先生が描いたのは、たぶん「生きる」ということで、「死ぬ」ことではない。僕が晴美さんの死を強調されることをひどく嫌うのは、そういうところにも理由があったのかもしれない。

 死ぬというのはたぶんあるていどには単純なことで、生きるというのはあまりに複雑だ。
 だから、生きることを描くためには、何も単純になんかしてはいけないと思う。

 


「わかる」ということばかりを大切にすると、「単純」というものが猛威をふるい、「生きる」という複雑さがなおざりになってしまうのではないだろうか。

 


 もちろん、「わかる」ものであるからこそ、多くの人に受け入れられるのだし、人の心にストレートに訴えるのだし、何度も書くが、だからこそ映画版は大傑作なのだ。しかしそれは、あの複雑な「生きる」ということをはっきりと描ききった原作とは、ぜんぜん違う種類のきもちを喚起させるものだと僕は思う。

 ある女の子が、原作を読んで、「これってすごい難しい話だよね」と言っていた。彼女はまだ映画を観ていないようだったが、「よくこれを映画化しようと思ったもんだ」と感心していた。あんなに難しい、複雑な話(「ストーリー」が複雑なのではなくて。念のため)を、よくぞあれほどわかりやすくしたものだと、僕も驚嘆する。
 映画を観て、よいと思った人にはぜひ、「生きる」ことの複雑さをそのまんま描いたあのすばらしい原作も、ぜひ手にとってほしい。

 

 映画版は「複雑な人間の心」というものをざっくりと捨象して、その代わり「生活」に大きなスポットライトを当てた、と僕は思っている。
 その象徴が、終戦直後のあの場面だろう。原作とはかなりかけ離れた、あのセリフ。


「海の向こうからきたお米や大豆、そんなもんでできとるんじゃろうなあ、うちは。じゃけえ暴力にも屈せんとならんのかね」


 友達がmixi日記で、この場面を引き、戦時下の食糧事情を踏まえた見事な考察を行っていた。この物語において、戦っていたのは「女」なのだ、と。その通りだろうと思う。(引用したセリフも、彼の日記から拝借した。)
 人間と人間との心の関わり合いには深く踏み込まず、ひたすらに「生活」を描いていたのは、それを支えていた「女」たちの戦いを描くためだった、ということか。
 その観点においては、やはり「悲しくてやりきれない」なのだろう。
 ようやく、少しは腑に落ちた。
 戦争映画になってしまった、とはじめは嘆いたが、そういう意味での闘いの映画であるとも思えば、「なるほど」ではある。そういう道路なら、嫌いではない。
(それでも、晴美さんの死は強調されなくていいとは思う。あれを強調と見ない捉え方もあるかもしれないが。)


 それにしても。「海の向こうからきたお米や大豆」という、一見唐突にも見えるセリフが、食を通じて戦い続けていた「女」たちのこと(事情や気分)を、たった一言で表現してしまっている。そのことは素直に本当にすごい。

 原作のそういう部分を、原作以上に強調して、素晴らしい成果を収めている。戦時下の「生活」を描いた映画として、超一流の作品だと思う。

 原作との差異について考え始めた時、最初はつい「制作者とは気が合わないな」と感じてしまったのだが、この友達の考察を読んで、認識があらたまった。
 彼らは「生活」を徹底的に描いていたのだ。それは周作さんやリンさんとの複雑な関係や気持ちを通じて描かれる「生きる」とはまた別の、また別に普遍的な、「生きる」である。

 そして、「お米や大豆」の一言についてだけ言えば、あれはなかなか「わからない」ものかもしれない。ある意味で最も大きな「山場」において、一点の「わからない」を象徴的に飾った。その他のところは「わかる」に終始させておきながら。
 それはちょっと、本当にすごいところなのかもしれない。

 


 僕はどうしても「複雑な人間の心」のほうにも興味があって、それが見られなかったのはやはり残念だ。願わくは同じスタッフ・キャストで、そっちのほうに焦点をあてた映画も制作してくれないかしら。A面とB面みたいな。両方あって、どちらも素晴らしい作品であれば、それが何より……。続編というか、姉妹編として、やってみてほしいなあ。
 そしたら今度は、クラウド・ファンディングにも参加します。ファインディングにも。

 

 こういう考え方の前提は、一つ前の記事に書いたようなことがあるので、興味があればご覧ください。


http://ozakit.o.oo7.jp/

 


「間違っていたなら教えて下さい 今のうちに」という、単行本の末尾にある言葉は本当に誠実さをかんじて、大好きです。セリフの細かいところなど、間違っているところがあればご教示ください。