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少年Aの散歩

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「わかる」偏重主義時代(『この世界の片隅に』前段)

「わかる」ということがそんなに大事かよ、というのは折にふれて思うのである。

 わからない、ということの効用については、橋本治さんがまさに『「わからない」という方法』(集英社新書)に書いていたが、そういう本が生まれなければならないというのは、今の世の中がいかに「わかる」を偏重しているか、ということが前提にある。


 しかし、「これが正しい」とはっきり思えるようなことが何もなくなったような現代、もう「答え合わせ」の時代は過ぎ去ったのだ。それなのにどうして、「わかる」ことが依然として偏重、珍重され、至上のものと奉られるのか?
 それは、今が「答え探し」の時代でしかないからだ。「答え合わせ」の亜流に過ぎない。
 これまで(橋本治さんふうにいえば二十世紀)は、「用意された答えに合わせていれば事足りる」時代だったと思うが、今は「自分で勝手に答えをはじき出し、その責任は自分で負う」なのではないだろうか。
 ペーパー式の、センター試験のように明確な答えの定まったテストで100点を取る、というのは、まさに「用意された答えに合わせる」が完璧に成功した例である。あらかじめ定まった答えに、自分を合わせていく。それでよかったのが、これまでである。
 今は、自分で考えた答えによって、他人を納得させなければならない。それは大変ではあるものの、「誤答」という可能性は減ったはずだ。どんな生き方でも、どんな選択でも、認められる目がある。それは幸福なことかもしれない。

「答え探し」が許されるのは、個人主義が実現した証拠である。誰が何を、どう考えてもいい。どんな答えを出しても、他人を妨げない限り、干渉されることはない。それが自由であり、そのように自由であることが、個人ということである。(建前としては少なくともそうだ。)
 自由な個人には多様性が許され、「解釈」というものが流行る。
 一つの映画に対して、さまざまな解釈があって良くて、「それは間違っている」という言葉がナンセンスとされる。「人それぞれやでぇ~」という言葉が、力を持つ。
 だから、「どんなわかり方をしても問題ない」ということになる。

 で、「わかる」ということがもてはやされるわけだ。
 許されていて、気持ちがいいから。
 また、それによって「承認」も頂ける。時によれば、褒めてもらえる。
 どんなわかり方をしてもいいので、「わかる」ことにもう、困難はない。人はもう、労せず「わかる」ことができる。
 わかり方は自由で、人それぞれだからだ。
「わたしはこういうふうにわかった」と言えば、それまでである。それで正しい。
 だから、「わからない」ということは、避けることができるし、誠実に「わからない」と思ったとしても、それを無理に「わかる」ことはなくて、別の「わかりやすそうなもの」を「わかる」ことにより、満足が得られる。
 これには僕ももちろん助けられていて、とてもありがたいことではある。

 しかし、人々がとにかく「わかる」ことを求めると、「わかる」ものばかりがもてはやされる。偏重される。
「わからないもの」は、「面倒くさい」と忌避される。

 わからないのにものすごく流行るものといえば宮崎駿監督の映画だが、あれは本当にすごい。特に最近のものは、『ポニョ』にせよ『風立ちぬ』にしても、「わかる」とは言い難いはずだ。勝手に「わかる」ことがしやすいのだろうか。あるいは、わかるわからないは置いといて、気持ちが良いのだろうか。正直言って、このことに関しては僕はよく、わからない。(だからこれからも宮崎駿監督作品については考え続けたい。)

 人は、「わからなくてもいい」となると、平気で「わからない」と言い、それを放り投げる。「わかる」となれば、がぜん、抱き込む。
 だから、「売れる」作品を作ろうとすれば、原則として「わかる」ものを作らなければならない。

 なんてことを言っていたら、「『エヴァンゲリオン』のように、わからないことが前提であるものを愛でる風潮も同時にあって、二極化しているのでは?」とコメントをもらった。
 確かにそうだな、と頷きつつ、でも「二極化」という言い方は僕の考えていることとはやや違うな、とも思い当たった。
エヴァ』のような作品は、たぶん、「わかる」ためのものである。
「わからない」まま受容するというよりは、力ずくでも「わかる」ことを楽しむ作品なのではなかろうか。だから「解釈」や「解説」という言葉が、あの作品のまわりからは多く聞かれる。
 普通なら、「わかる」ようにやさしく手ほどきしていくような作品でなければ売れない、はずなのだ(と僕は思う)が、『エヴァ』にはきっと「何がなんでもわかってやる」とか、「わからないけど、わかりたい」とか、思わせる力があるのだろう。
 ……ただ、新劇場版の、あのすさまじいヒットについては、よくわからない。もっとわかりやすくなっているのだろうか? それとも、「わからないけど、なんか気持ちいい」と思わせるものがあるのだろうか。いずれにしても、やはりすごい作品なのだなあ。(最初のTV版以外観ておりません。)
エヴァ』にお金を出す人の、すべてが「謎豚」であるわけがなく、ごくふつうの、いわゆるオタクでない人だって観に行っていた。それは「宣伝」とか「イメージ」の力なのかもしれないし、それらとはまた別に、ものすごい、僕のまだ知らない魅力があるのかもしれない。

 それで、さて、今回の問題意識なのだが、「並の作品は、『わかる』ほうに寄せられる」である。
 全体としては、やはり「わかる」ほうへ、たとえば映画は、寄せられていると思う。
 売れなきゃいけないんだから、当たり前の話。
 わかりやすくなっている。何がなんでも、一回で観客をわからせなければならない、という執念を感じる。さらに「もう一度観れば、“もっと”わかりますよ」という囁きによって、観客を「わかる」の悦楽に引きずり込もうとする映画が、多いように思う。

イニシエーション・ラブ』という映画の有名なキャッチコピーに、「最後の5分全てが覆る。あなたは必ず2回観る」というのがある。観客は、最後の5分で、ある事実を明かされて、ものすごく気持ちのいい「わかる」を経験する。「そうか、そういう映画だったのか!」という気付きを得る。そして2回目の鑑賞では、「なるほど、そういう視点で見れば、このシーンはこういうふうに解釈できるのか」と、ふたたび「わかる」を楽しむことができる。
 映画とその広報が、自覚的に、観客に対して「わかり方」を指南しているわけである。「こういうふうに『わかる』と、この映画は面白いのです」と。
 これはどちらかというと、「あらかじめある正解に合わせる」というわかり方なのだが、巧みなことに、これだと観客はあまり「押しつけ」を感じず、「自分でわかった」という気分になれるようである。イケアで買った家具を組み立てて、「自分で作った」ような気になって愛着が湧く、というのと似ている。(これについては小沢健二さんの『うさぎ!』三十九話を参照。DIYの話。)
 学校の勉強に関してでも、これになぞらえたことが言えるが、長くなるし繊細なところも含むので、今回はよしておこう。

 よく言われることだが、昔の映画には「セリフでわからせる」ということが少なかった。表情や情景描写のような「演出」によって、言葉少なでも伝わるような作りになっていた。言葉で語るなら小説でいいだろ、という気分が、あったのではないかと思う。
 今は、すべてセリフで説明してしまう。そういうものが売れる。観客は、「わからない」ものなんか基本的には観たくないし、セリフがなくても「わかる」ほどの理解力は、持ち合わせていないのだ。
 昔の観客は優秀だった! という単純な話でなく、たぶん昔は「セリフがなくても当然わかる文脈」というのをみんなが共有していたから、という事情によるのだろう。男が背中を見せて立っていたらそれだけで泣ける、みたいな。(適当な例が思い浮かばない……。)えーと、椿が落ちたら処女喪失、とか?(違うかーガハハハ。)
 ともあれ、「共通認識」ってのは、今よりも昔のほうがあったように思うから、そこを攻めていけば、セリフなしで伝える、ってことはしやすかったんだろうな、とは思う。だから今の映画が説明過剰になっていることを、単純に堕落とのみ捉えるべきでないとは思う。今は「みんながわかる表現」に乏しいから、セリフで表現しないといけない、のかもしれない。

 とはいえ、とはいえ。
 セリフにも、共通認識にも頼らない、あるていど普遍的な「わかり方」ってのはきっとあって、そういう作品が僕は好きだ。そういうものが「売れない」というのは確かだと思うけど。

 というわけで『この世界の片隅に』の話になる。
 現在絶賛上映中の映画で、こうの史代先生の漫画が原作。
 あの映画は、「わかる」ということを徹底的にさせることで、成功した。
 その代わりに、原作にあった「わからない」「わかりにくい」部分を、ことごとく封印した。
 僕はその「わからない」「わかりにくい」ところこそに魅力を感じていたから、ちょっと残念だった。でも、「売れる映画」にするためには、それしかなかったのかもしれない。

 詳しい話はまた明日。稿を改めます。

 

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