少年Aの散歩

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蹴鞠にはサービスがない

 先日、ある人のお話を聞くために、あるバーに行ってきた。
 そのバーは、独立国家であるそうで、構成員として法皇枢機卿、司教、司祭などがいるらしい。バチカンを模しているのであろうか。
 毎夜バーテンとして「肩書きのある人たち」を呼んで、「○○バー」と題して、イベント的な営業を行っているようだ。(この肩書きとは、たとえば「○○教信者」とか「○○障害」といったものも含む。)
 住宅街の真ん中にある、こぢんまりとした、元々はスナックか何かであったらしい店。雑然と、さまざまなモノが置かれている。とても良い雰囲気だと思った。キャッシュオンデリバリー方式(マクドナルドやドトールのように、注文と同時にお金を払うシステム)で、チャージが五〇〇円、ドリンクは一律五〇〇円。「計算が面倒くさいから」だそうだ。そういうところも好感が持てる。
 健全かどうかといえば、健全ではない。(これは褒め言葉にもなるだろう。)
 その最高責任者と話をした。彼は、「店や自分にまつわる面白い話」や、「これまでにどのようなイベントをやったか、誰が来店したかという話」、「ある有名な人とどれだけ仲が良いかという話」などを披露してくれた。隣には「バーテン長」のような人がいて、いろいろと調子を合わせ、語ってくれた。基本的には、「この店はどれほど特異であり、巨大であるか」という話に終始していた、と僕は感じた。
 それはサービス精神でもあろうが、サービスというのは、そもそも一方的なものである。
 そういう意味なら、サービスのよいバーは苦手だ。

 サーブ(サービス)が飛んできたら、それを受けて、返して、ラリーになる。ところが、テニスでも卓球でも、バレーでもバドミントンでもなんでも、スポーツというのは原則として、「ラリーを続けて楽しむこと」を目的としない。彼らの執心は「自分の側に点数が入るような形で、ラリーを終わらせる」ことにある。
 僕は蹴鞠が好きである。蹴鞠とは蹴り上げられて落ちてきたボールを別の人がまた蹴り上げ、決して地面に落とさないように上空に蹴り上げ続ける遊び、だと理解している。バレーボールを使って手でこれを行うことも多い。こちらは原則として「続ける」ことが目的で、終わりを目的としない。「和をもって貴しとなす」日本人にはぴったりの遊びだ。
 この蹴鞠には「サーブ」がない。少なくとも、ふつうそうは呼ばないと思う。
 もともとは「相手が受けやすいように投げ入れる」からサービス(=奉仕)と呼ぶのだそうだが、それでも、蹴鞠のような仕組みだと、「奉仕」というにはなんか変だ。みんなで協力してやるものだから。

 僕は気持ちの良いサービスを受けるよりも、永遠に続くラリーが好きである。蹴鞠を愛している。
 自前のサービスに自信があれば、それを勧めたくなるのもわかる。しかし、押しつけがましいのは御免だ。

 一人で立っているバーに客が一人入ったら、そこは「二人の空間」になって、二人で蹴鞠をする。もう一人客が入れば、「三人の空間」になって、三人で蹴鞠をする。と、いうのはもちろん、僕の美学である。誰もがそれを良しとするわけではない。僕のようなサーブ嫌いはそうはいないであろうから、思いっきり少数派かもしれない。でも、そういう人だって居んだよ、ってことで、僕はそれを長い間主張し続けているのだ。

 なんだか、彼らの話を聞いていたら、どかどかサーブを投げ込まれて、こっちがどう返しても、「自分の側に点数が入るような形で、ラリーを終わらせる」ことを意図したような反応が、たいてい戻ってきていたような気がするのである。
 そういうコミュニケーションは平和ではない。


 これはもちろん、数日前の「自分の自信の中に相手を取り込んではいけない」と、まったく同じ話だ。
「謙虚さとは、孤独であることに耐え、それを当たり前と考えること」とその時書いた。
 自信がない人は、他人に承認を求める。
「すごいでしょ、ねっ?」と言いたがる。
 それは「孤独ではいたくない」という叫びなのだと僕は思う。
 承認欲求は孤独からの逃避であり、容易に傲慢と手を結ぶ。
 他人を巻き込むもんじゃない。


 今わたしたちに大切なものは 恋や夢を語り合うことじゃなく
 ひとりぼっちになるための スタートライン


 って、海援隊も歌ってましたよ。(3年B組金八先生第四シリーズ主題歌『スタートライン』)

 

 

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