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少年Aの散歩

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自分のために何かをすると年をとるの!

 自分のために何かをすると年をとるの!
 他人のために使える時間が若さなの!

 

 

 

 自分のために時間を使うと年をとる。
 他人のために時間を使えば年はとらない。

 逆のような気もする。一般的には逆のイメージなんじゃなかろうか?
 でも、「自己中心的なやつは老けやすい」と言い換えたら、そんなような気もしてくる。

 赤ちゃんは、たぶん自分のために時間を使う。
(「使う」という表現がふさわしいかは知らない。)
 子どもはだいたいそうである。だから、すぐに年をとる。

 じゃあ、妻子のために働くおじさんは、年をとらないのか?
 たぶんこの場合、「自分=妻子」あるいは「自分+妻子=自分たち」というふうになっているから、結局は「自分のために働く」ということになって、やはり年をとる。
 あるいは、「ために」ということの内容が、結局は「金」に変換できることでしかなくなって、有名無実化し、「ために」の効力が失われていくとか。
 何にせよ、こじつけられそうだ。

 でも、だったら、「他人のために時間を使う」ってのは、どういうことなんだ?
 いろいろ想像はできる。
 ともかく、抽象的にだけいえば、たぶん「独り善がりにならないでいる」ということだろう、と思う。「できるだけみんなのことを考える」だと思う。


 できるだけみんなのことを考える独り善がりにならないでいる


 なんと立派な57577!!
 なんてことはおいといて。そうだとおもう。

 学校で働いていると、「本当に自分本位だな!」と思うことがたくさんある。もちろん、生徒に対して。といって、たいして苛つくでもなく、「まあ子どもはそういうもんなんだよな」とか思って、淡々と対処している。(ストレスはたまるけどね。)
 そういう子は、たぶん、すくすくと育っている渦中である。
 若いうちはそれでいいが、来たる先に待っているのは老いであるので、老いるのが嫌であればどこかで方向転換しなければならない。しかし「老いるのは嫌だ」などというこれまた自分本位な考えを全開にしていると、やはり「自分のために時間を使う」という状態になり、意志に反してどんどん老けていく、であろう。何も考えず、ただひたすらに「いいやつ」であることが肝要なのだ。たぶん。

「自分のこと」だけを考え続けると、思考のパターンが一定化してくる。単純になってくる。頑固おやじはある決まった回路でしかものを考えない。顔も頭も石のようになっていく。柔軟性はない。そうするとやはり、老ける。
「できるだけみんなのことを考える」をすると、ものすごく複雑な思考のパターンが必要で、頭は活性化され続けるし、相手や状況によって表情や立ち居振る舞いも変えていかなきゃならないから、柔軟性を保つことができる。

 いわゆる「難しい」ことばかりを考え続けても、たぶんよくない。論理的な思考能力は錆びつかなくても、「論理」というたこつぼの外側にあるものがだんだん見えなくなっていく。難しいことを考えるよりも、たくさんのことを感じたり、柔らかくいろんなことを想ったほうが、たぶんよい。
 よいというのは、ここでは「年をとらない」であるが、「年をとったらだめなの?」という素朴な疑問についても、考えておかねばならない。

 単純に、僕がここで「年をとる」と言っているのは、「いやな年齢の重ね方をする」の意である。そういうニュアンスが、当然多分に含まれる。
「いい年齢の重ね方」をしている人は、それが見た目にも反映されて、「若々しい」とかいうふうに言われることが多い。そうでなくても、「感じがいい」とか「気さく」とか「いい人」とか、前向きの言葉でもって語られやすい。
「いやな年齢の重ね方」をすれば、そうはならない。当たり前だ、やなやつなんだもん。
 やなやつ、というのは「他人のことを考えない」である。邪悪という言葉の(僕による)定義と同じである。自分のことしか考えないと、思考は柔軟性を失っていく。柔軟でなくなれば、若さも同様に失われていく。だから、やなやつに若さはない。若さは柔軟性と同期するからだ。

 余談だが、年の若い人間はみな柔軟である。しかし、かなり小さいうちから「柔軟であろうという努力」を相当懸命にし続けないと、絶対に固まってしまう。十歳で固まり始めていたらもう手遅れに近い。その後十年から二十年かけて、頑固への道を少しずつだが着実に歩んでいくだろう。柔軟であるためには、「柔軟であろう」という努力というか、方針が、必要である。粘土だってこね続けなければかたくなるのだ。

 家庭や学校で植え付けられた「常識」を、自分の頭で再検討するには、相当の柔軟性が必要だ。「本当にそうか?」と疑う練習を必死にやっておかなければ、その柔軟性は育たない。練習が不十分だと、「本当にそうか?」のあとが続かない。「本当はこうかもしれない」を、百個でも千個でも考えられることが、柔軟性というものなのだ。そのための練習が、若いうちには必ず必要で、それをやってこなかった人が、どんどん年をとっていく。
「本当はこうかもしれない」をたくさん思いつく人は、気配りが上手である。「こうすれば気分がよくなるだろう」という「ピンポイントで正解を当てる」方式ではなくて、「こうすると気分が悪くなるかもしれない」「こうすると気分がよくなるかもしれない」という無数のヒントをもとに、外側から水攻めをするようにじわじわと正解を導き出していくので、致命的に間違えることがあまりない。
 もちろん、後者の方式は時間がかかる。前者のように「こうすればいい!」という正解をダイレクトに出せてしまったほうが、話が早くて、効率的である。でも、じっくりと丁寧に考えてあげたほうが、いい結果が出やすい。時間をかけたほうが、相手がいい気持ちになる確率が上がる。これが「他人のために時間を使う」だとすると、それは優しさと柔軟性の証明のような行為であって、まあ、いいやつのすることである。僕のいう「年をとらない」とは、そういうこと。

 

 

 自分のために何かをすると年をとるの!
 他人のために使える時間が若さなの!

 

 

 時間を、自分のものだと思っているような人に、時間は必要ない。
 だから若さは剥奪される。
 他人のために使える時間が若さなのである。

 

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