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少年Aの散歩

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自分の自信の中に相手を取り込んではいけない。

 自信がある、ということは大いにけっこうであるし、この世にある心の問題の多くは「自信がない」ところに端を発する。自信がないとは自己肯定ができないということだ。自信はないより、あったほうがいい。しかし掟がひとつ。「自分の自信の中に相手を取り込んではいけない」これである。

 自信というのは、あくまでも自分が持つもの。自分を信じる、信用する、信頼する、確信する、そんな気持ち。相手の気持ちはこの際、関係がない。
 だが自信家の中には、対する相手にそれを要求する者がいる。

「おれはすごい」と思うだけならまだ健全だが、周囲にも「すごい」と思ってもらいたがるのは、いけない。あるいは、「すごい」ということを客観的な前提として、話とか、ものごとを進めようとするのも、だめである。自信とは、主観的なものでなければ。
 自信とは孤独なものである。自信の根拠は、自分の胸の中にしか存在しない。自分だけがいくら自信を持っていようと、相手がどう考えるかは別の話なのだ。自分による評価(=主観的な自信)と、他人による評価とを、きちんと分けて考えられることが、「分別がある」ということだし、「謙虚」ということであろう。
 自信を持つとか自己肯定するということは、自分によってのみ行われなければ仕方ないことで、だからそのための「承認欲求」は空虚である。他人から「承認」されたところで、ほんとうの「自信」は育まれない。自信とは本来的に、他人を巻き込まないものだから。もしも「承認」によって「自信」のようなものが生まれたのだとしたら、それは「他人を巻き込む自信」であり、謙虚さに欠けた、尊大なものになる。「おれはすごい。な、そうだろ?」という形で、他人にウンと言わせない限り存在を許されない、虚ろな自信である。
 そんな虚ろな自信でも、藁をつかむようにほしがる人たちがいる。彼らには孤独が耐えられない。自分の中で、自信を熟成させることができない。
 そういう、孤独に弱く、常に「承認」が必要なような人は、いっそ自信など持とうとするのは諦めたらどうか。「自己肯定」などという神話は捨ててしまって、周囲の人たちとひたすら楽しく暮らせばいいじゃないか、と。実際そのような人たちはたぶんたくさんいて、そうでないわずか一部の我利我利亡者どもが、「尊大な自信家」として今日も大声でわめき立てている、のである。マル。

「自信がない」ことが問題となるのは、「自分」を基軸に生きていこうと努めるからである。そうでない生き方がもしもあるなら、自信の有無は問題にならないのではなかろうか。

 自分が基軸にならない生き方。いくらでも想像しうる。

 とはいえ、「自分たち」を基軸に据えるのも、場合によっては考えものである。「自分たち」に対して自信を持ち、その自信に相手を巻き込んでいった場合、また騒動が起こるのである。(勧誘の激しい宗教団体を想像していただきましょう。)
「基軸」をどこに置いてもかまいはしないが、結局のところ、それを他人に押しつけちゃダメだよね、というだけの話なのだろう。
「自分たち」を基軸とするのなら、その自信についての肯定を、外部に求めてはいけない。それが謙虚というものだ。もちろん「自分」を基軸に生きる場合も同じである。「子」を基軸に生きる場合、その自信に他人を巻き込めば即、親バカと言われる。「親」を基軸にすれば「親孝行」だが、その中に他人を取り込むとなると、「てめーの親のことなんて知ったこっちゃねえんだよ!」となる。われはわれ、かれはかれ。それぞれに大切にするものはあっても、押しつけちゃいけない。当たり前のことである。スポーツマンでもオタクでもなんでも一緒だ。

 話を、個人の自信家に戻す。「おれはすごい」という自信があるのはけっこうだが、「おれはすごいよな?」は傲慢である。これも当たり前の話なのだが、そういう謙虚さのない人は無数にいる。職場にもいるし、飲み屋にも、電車の中にもいる。
 自信の中身を「おれはすごい」のみに限定するとわかりにくいので、「おれはできる」や「あたしはかわいい」についても考えてみよう。
「おれはできる」のだから、周囲からもそのように扱われたい、というのはよくわかる話であるが、「おれはできる」という確信は、自身の中にのみある、主観的な感覚でしかないから、それを他人にもわかってもらおうというのは、虫のいい話である。
「あたしはかわいい」も、まったく同様で、主観的な話であるから、他人にそういう感覚を共有してもらうことは、できないと思っていたほうがいい。
 そういうふうに人間は原則として孤独なのである。
 謙虚さとは、孤独であることに耐え、それを当たり前と考えることだと思う。

「おれはこう思うんだけど、まあみんなもだいたいそう思うよね?」
 というのは、自分の心の中にだけしまっておくべきことで、それを前提にものごとを進めていこうとするのは、傲慢だし、「そうでない」という可能性を無視する、一種のギャンブルである。
 そういうやつを「やなやつ」と思う。

 

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