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少年Aの散歩

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お茶の淹れかた

お茶の香りがしてる
その中に立っていた茶柱が
マッチに見える
静岡茶とか鹿児島茶とか伊勢茶だとか言うけれど
そんな言葉に興味はないぜ ただ鉄の急須でお茶淹れて
揺らしてるだけ 自分の湯飲み 揺らしてるだけ
(BLANKEY JET CITEA/お茶の淹れかた)

 

 現実的なこだわりとしては、大須の万松寺通り商店街にあるお茶屋さんか、掛川か清水あたりかで静岡茶買ってくる、ってのがあるけど、そういうことさえも本当はどうでもいいのだと悟った。
 お茶に貴賤なし。改めてそう思う。

 先日「お茶(緑茶)は上手に淹れられないからあまり飲まない」という言葉を聞いた。そういう人はけっこう多いと思う。
 お茶をそれなりに美味しく淹れるのは実際のところ、全然難しくない。清水に住まう友達のお母さんに「おいしいお茶のいれかた」をたずねたところ、「温度よ温度。たくさんお茶っ葉を淹れて、ちょっと冷ましたお湯を注ぐだけよ」とのお返事があった。毎日何度も何度もお茶を淹れ続けている(静岡人は急須……いや土瓶のお茶を切らすことがないのである)人の言葉はじつに説得力があった。ずいぶん肩の荷が下りたというものである。
 しかしこの「温度」というのがじつにくせ者で、忙しく面倒くさがりの現代人はつい「熱湯のまま注げる」手軽さに惹かれ、紅茶やインスタントコーヒー(特に粉末のやつ)を好む傾向にある。お茶を淹れるために、お湯をさます、あの一手間が手間なのだ。急須で淹れれば急須を洗う必要も生じ、これまた手間である。それら手間を引き受けて淹れた割りには、さほど美味しくもないのだとしたら、やはりお茶からは意識が遠のく。避けてしまう。
 僕からしたらコーヒーというのがそういう存在である。手間がかかるわりに、おいしくできない。自分にはコーヒーをいれる才能がないのかもしれない。しかしいつかおいしいコーヒーが自分でいれられるようになりたいので、冬休みにでも馴染みのある名古屋の喫茶店で修行させてもらおうかと考えている。

 ただ、お茶にせよコーヒーにせよ、おいしく淹れるための唯一最高の方法を最近悟った。愛するということである。
 どのお茶も愛すること。愛し続けること。お茶に貴賤なし、と思うこと。うまいか、まずいかさえ考えず、ただその目の前の一杯のお茶を愛して飲み続けること。
 きれいごとを言っているようであるが、どんなことでも結局はそうなのではあるまいか。
 おいしい・おいしくないなんてのはどうでもいいのである。ただお茶を愛して、飲むのである。おいしければ「おいしい」と思い、おいしくなければ、特に味のことは思わない。そしてまた次の一杯、次の一杯と、淹れ続け、飲み続けるのだ。
 徒然草の「初心の人、二つの矢を持つことなかれ」だとか、『モモ』のベッポじいさんの掃除のやり方なんかが似たものとして思い浮かぶ。ただ目の前のことだけに集中する。それが「一期一会」なるものなのだろう。……適当に考えていたら利休にたどり着いた! ので、たぶんそれなりに妥当なはず。
 味がなんだろうがお茶はお茶。茶葉が古くなって香りが損なわれていようが、それがお茶である限り、お茶として愛する。それがあらゆることに対する心構えとして、一定の正しさを持つものと信じたい。

 

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