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少年Aの散歩

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場の支配(2) 法の支配のように/未来に対して優しい態度

王様「グヘヘ~。国じゅうの柿をわしのものにするぞ~。柿をとりたて~い。柿じゃ柿じゃ」

側近「なりませぬ、陛下」
王様「ええいなぜじゃ」
側近「ほかの柿が食えなくなります、じゃなくて、そんな超法規的なことをしても、いいことはありません。現行法では、国税はすべて桃で納めることになっています」
王様「では法律を変えい! 桃3、柿7の割合で徴税するのだ!」
側近「ううーん、しかし……」
王様「なんじゃ、法律を変えれば文句なかろう」
側近「それはそうなんですけど、お治めが王様になっている、じゃない、王様がお治めになっているこの地方では、五億年前から、支配者や目上の者には桃を差し出すべし、柿は猿に投げるべし、という慣習があるんですよ。五億年間、民衆はただそれだけは絶対に守り続けています」
王様「しかしわしは絶対君主だ」
側近「確かにそうたい。ばってん、絶対君主でも侵せない法があるのですよ」
王様「それではどうすればいいのだ、柿が、柿が食いたい!」
側近「王様が猿になればいいんじゃないですか」
王様「カッキ的!」


 ざっくり、ざっくり言うと、「法の支配」とは根本的にはこういうことかと、理解しております。絶対君主であっても侵せない法。それは必ずしも明文化された「法律」というものでなく、長い間、ないし多くの人々のうちで、共有されている自明な法。
 それをもじって、「場の支配」。

 場にはけっこう、場を取り仕切る人、というのが存在する。
 場を取り仕切る人は、「場の支配」をわきまえていなければならない。場を取り仕切る人は、その人がどれだけ偉くて、権力があっても、その「場」のあり方を尊重しなければならない。絶対君主のように、「ここの法律は俺だ!」というような態度になってしまっては、そこはもう「場」とはいえない。(そのようなものとして僕は場なるものを想定している。)
 僕がこれまでに経験した、「いやだな」と思う場には、たいてい「専制君主」と「愚民」がいた。
 専制君主は、場を侵す。自分勝手に、場を塗り替えようとする。愚民は安易にそれに乗る。あるいは耐え忍ぼうとする。そうなれば衆愚政治である。

 法とは、みんなでつくるもの。「みんな」とは、今その国に生きている人たちだけでなく、過去生きてきた人たちや、これから生まれてくる人たちも含めての、「みんな」。そう考えることが絶対に健全だと僕は信じる。今だけでなくて、過去と未来に目を向けること。それは大切。
 そして場というものも、法と同じく、「みんな」でつくるものである。過去にそこにいた人や、これから来るかもしれない人も含めた、「みんな」のもの。その場にいる人たちだけで、勝手につくったり、塗り替えたりしていいものではないのだ。価値観の古い人間だから、どうしてもそう考えてしまう。
 そうなっていて初めて、僕の考える「場」というのは成立するのだ。

『場の本』という冊子にも書いたが、僕がしつこく言い続けている「場」というものの原点は、小学生の頃に遊んでいたいくつかの公園である。たまたま通りがかって、「あ、入る?」とか「入れて」が発生すれば、よほど嫌われていない限り、一緒に遊ぶことになる。この柔軟性、流動性こそが、「場」というものの根源的な性質、だと僕は捉えている。
 公園の遊びは、何代も上の人たちから受け継いだものがほとんどで、それに今の世代が味付けをしたり、新しいものを編み出したりして、時代に対応したり、豊かになったりしていく。過去からずっと、繋がっている。(それが明らかに途切れた、と感じたのは、ポケモンが出た時だったが、それも大きな意味では「時代に対応」だったのだろう。わからんでもなかったが、イヤな時代が来たもんだと、当時は思ったものだった。「あまりにも伝統とかけ離れすぎている!」と。まあこれについては異論もたくさんあるだろう、たんなる個人的な感想として受け取ってほしい。)
 そして未来にも、繋がっていく。
 たとえばサッカーをして遊んでいる時に、新しいメンバーがやってきた。そのメンバーは、何らかの事情があってサッカーができない。そこで「いまサッカーやってるんだからダメだよ」と言うこともできるが、それは「未来に対して優しくない態度」である。現在だけを大切にした考え方。場における、未来に対して優しい態度というのは、「新しい人が来ても受け入れる態勢でいること」だと思う。「この子はサッカーができないから、別の遊びにしよう」とか、「サッカーのルールをちょっと変えて、この子にも参加できるようなものにしてしまおう」とかいった柔軟性、流動性が、「未来に対して優しい態度」だろう、と。

 むりやりこじつけてしまえば、最初の王様と側近の会話。あれだって、柿を食べたくても食べられないとしたら王様は可哀想だ。なんとか、王様が猿の格好をして領内を練り歩き、柿を投げられ、拾っては泣きながら食べる、みたいなことが実現したら善い。なんと柔軟性のあるすてきな国だろうか。それが、過去を尊重し、未来にも優しいということだと思うし、場とか国とか組織とかいうものは、すべてそのような柔らかさを持っていてほしい、と、切に願う。

 

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