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少年Aの散歩

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『しくじり先生』のみそぎ(謙虚さ)

 いま好きなテレビ番組は『しくじり先生』と『ザ・ノンフィクション』。どちらも「人生」のむげん性(無限でも夢幻でもよい)を痛感させられるもので、とても参考になる。「生きてるって重大なことだなあ」という当たり前のことを考えさせられる。「生きてる 生きている その現だけがそこにある 生きることはサンサーラ」とは『ザ・ノ』のテーマ曲の歌詞だが、まさにこれ。生きている、ということはただひたすらに重大なことだ。重要とか必要とか大切とかいった価値判断は抜きにして、ともかく重く、大きい。それだけは言える。

 サンサーラとは「輪廻」と訳されるようだが、サンスクリット語の原義は「流れる」なのだそうだ。日本的な仏教理解とは違った意味になりそうだが、面白そうなのでちょっくら勉強してからこの言葉については語ることにしよう。(いつになるやら。)

しくじり先生』は、かつて「しくじった」芸能人が教壇に立ち、授業の形式で自分の「しくじり」を告白する番組である。芸能人の「しくじり」の中には当然、しゃれにならないものもあり、被害者だとか迷惑をかけた人たちへの「謝罪」も番組内でよく行われる。日本人は本当に謝罪が好きだなあ、と思いつつ、まあ謝罪くらいで「みそぎ」が済むのなら安いものだ。
 僕は昔から、「人間は更生などしない」と考えている。「更生する人間もいる」なんてことはわかっているのだが、「更生しない」と考えるほうが謙虚だと思うのだ。「自分は更生した」と思っている人間がいるとしたら、そいつは「やなやつ」なんじゃないか? と疑ってしまう。反省がないのでは? と。悪いことをした人間は、永遠に自分でその十字架を背負い続けるべきだ。そうであってこそ、他人からは赦されうるのではなかろうか。
しくじり先生』をみていると、その分かれ目をなんとなく感じる。先生たちはみんな、かつての過ちを猛省し、しくじっていた時期とは違う、生まれ変わったような清新な生き方をしている、あるいは、しようとしている。しかし中には、「自分は変わった」「更生した」と自分で思ってしまっていることが透けて見える先生もいる。それはどうも謙虚ではない。また別の「しくじり」を重ねてしまわないか、心配になる。
 人間は変わらない。本来の姿に向かっていくだけだ。そう考えるような謙虚さがあってこそ、周囲から「変わった」と見なされうる、という逆説(国語の先生らしく、つかってみた)を、僕は信じている。「本来の姿」は誰しも捨てたものではないという、一種の性善説だ。(松永太みたいなのは、別かもしれないが。)

 大和美達という「二件の殺人による無期懲役刑で服役中の文筆家」(そういう人がいるのです……久々に調べたらブログやってた)が、凶悪犯がいかに反省しないか、ということを獄中から告発した手記をいくつも出版している。僕はこの事実(たぶん)に注目したい。性犯罪者に再犯がめちゃくちゃ多い、というのもよく言われるし、昔からやなやつだったやつが今でもやなやつだったりとかってのも実際にある。彼らにとってはそれが「本来の姿」なのだろうか? そうかもしれないし、まだ途上なのかもしれないし、二度とそっちのルートには戻れないような呪いにかかってしまっているのかもしれない。謙虚さがあれば、きっと近づけると信じたい。
しくじり先生』を見ていて、謙虚さがある先生だと嬉しい。もはや伝説となった辺見マリさんの回(拝み屋に洗脳されて五億円だまし取られた話)も、辺見マリさんの謙虚さがあってこその「神回」なのだ。僕はギター侍こと波田陽区の回がとても好きだが、番組の打ち合わせで初めて「謙虚さ」(という表現に、ここではしておく)を知り、本番中にも少しずつそれを獲得していく様が、実に美しかったのである。
 謙虚さといえば、先日自殺により亡くなった方のHPに、「謙虚さというのは、自分が恵まれたことに気が付いて、その事に感謝出来るかどうかなんですよ。」(参考URL)とあった。いくらしくじろうがなんだろうが、『しくじり先生』に出られて、そこで「みそぎ」をさせてもらえる、というのは、ものすごく「恵まれたこと」なのだから、そういう気持ちが感じられないと僕は、「今回はちょっと嫌な感じだな」と思ってしまう。
 そう、僕は『しくじり先生』で行われていることは基本的に「みそぎ」だと思う。それまでの芸能活動をその時点でいったん清算するような。「反省しております、これからもよろしくお願いいたします」というのが基本構造で、だから「謝罪」は重要な儀式になる。だけど、それが形式のみに堕してしまうこともあって、そこを分けるのは「感謝」とか「謙虚さ」の有無だよなあ。

しくじり先生』が教えてくれるのは、「しくじらないための方法」だけでなく、「しくじったあとに、どのように禊ぎを行えばよいか」ということでもある。教壇に立つ先生たちの態度をよく見ていると、優れた禊ぎと、そうでもないものがあることに気づく。神聖に、敬虔に、している人はじつに素晴らしい。

 

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