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少年Aの散歩

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場の支配(1) バーテンの見えざる「手」

 ある飲み屋に行ってきた。支配的な空気が流れていた。僕は飲み屋における支配的な空気があまり好きではない。ここではゴールデン街のバーのような、不特定の人間が肩を並べて座り、たまたま居合わせたメンバーで世間話などを行うような空間を想定しているのだが、そこにおいて「支配的」というのは、「ある特定の人間や話題がその場の中心になってしまう」という事態だ。同じ人(たち)だけがずっと喋っていて、ほかの人たちがじっとそれを聞いている状態だとか、ずっと同じ話題だけが続いて、ほかの話にうつることのない様子だとか。
 とはいえ、長く飲んでいればそういう瞬間が心地よいときもあるし、「今日はそういう日か」という納得の仕方もある。「支配的」であることがそのまま「いやだ」となるわけではない。「ああ支配的だなあ、でもまあいいか」と思うことがほとんどだ。たまたま集まったメンバーで、いつでもよいセッションができるわけがない。
 でもさすがに、それが一時間くらい続くと、「そろそろもういいよ」となる。声が大きくて、話がそれなりに面白い人たちが喋り続ければ、ほかの人はそれを聞かざるを得ない。聞いてる風にしておかないと、なんだか無視しているような感じにもなるし、声が大きくてそれなりに面白いから、なんとなく聞いてしまうのである。それで時間がびゅうっと過ぎていく。
 せっかく人を求めて飲みに来てるのに、たまたまひねったラジオを聴き流しているような時間が長ければ、「楽しい」とはならない。僕はそうだ。延々聞き手でいることが好きだという人もいるかもしれないが、僕の経験上、バーに来るような人たちの中に、本当に心からそう思っているような人は極めて少ない。彼らは「場」を楽しみに来ていることがほとんどだ。「面白い話が聞きたい」というのであれば、読書なりテレビなり別の手段を使うだろう。「自分も機会があれば喋りたい」とか「いろんな人のいろんな話が聞きたい」と思っている場合がたぶん圧倒的で、だから「支配的」であることはやはり、さして歓迎はされないと思う。
 だがそういう状況は必ず訪れる。その時に活躍するのが、バーテンである。

 これは僕の考え方になってしまうが、「たまたま居合わせた複数の他人同士がお話をする」という状況が起こりやすいバーにおいては、バーテンの仕事の一つとして「ならす」というのがある。山をならして平たくする、という場合の「ならす」。極端にいえば、明石家さんまさんみたいなことをするわけである。
 もちろん、さんまさんみたいにうるさくやる必要はないし、何でも笑いに繋げていくべきでもない。さんまさんのように出演者に「役割」を当てて、それを忠実に遂行させるように促すようなことは、むしろしてはいけない類のことだろう。でもさんまさんからバーテンが学ぶべきところはあるだろう、と思う。例えばその一つが「ならす」。
 さんまさんは、ある意味の平等主義者である。盤上の駒(言い方は悪いが)がすべて活躍できるように采配する名監督。さんま御殿なんかはその極致だ。オンエア上では発言のごく少ない出演者もいるにはいるが、それでも全く喋らせない、ということは当然だがない。デビューしたばかりの深田恭子が何かの番組にゲスト出演した際、ちっともかんばしい反応を返してくれない彼女に対してさんまさんが言ったのが「あんた、打っても響かんな」というコメント。何度も連発し、大きな笑いをもぎ取っていた。どんな相手に対してでも、必ず見せ場を与えられる。めぼしい発言のほぼない相手に対してでさえ。さんまさんの凄みである。
 あのようなことをさりげなくやれるのがよいバーテン(の一つのあり方)であろう、と僕は考える。
 ここで大事なのは「さりげなく」だし、喋る必要を感じていない人に無理に喋らせるのもあまりよくない。もしもさんまさんの劣化版みたいなバーテンがいたら、僕は絶対にその店には行かないだろう。さんまさんのやり方はバラエティーショーのやり方であって、バーには別の作法がある。
「神の見えざる手」という言葉があるが、あれのようなものだ。「さんまさんのあからさまな手」ではなくて。すぐれたバーテンは本当にさりげない。

声のうるさい客「○○がよお、××でよお、△△なんだよお」
バーテン「○○って、□□ですよね。」
声のうるさい客「□□? なんだそれ」
□□に詳しい客「□□というのはですね、△△を◎◎したもので、……」
◎◎に興味がある客「えーっ。◎◎ってそんなことにも使えるんですか?」
□□に詳しい客「□□と一口に言っても、ペラペ~ラ、ペラ~」
◎◎に興味がある客「知らなかったです!」
いろいろと無知な客「そういえば、●●の事件、やばくないですか?」
声のうるさい客「あー! ●●!」
バーテン「(無知な客に)事件って?」
声のうるさい客「●●ってのはあ、アレコ~レ、コレコ~レ」
バーテン「へー、そうなんですね。みなさん知ってましたか?」
□□に詳しい客「□□で読みました」
◎◎に興味がある客「□□って、そんなことも載ってるんですね」
□□に詳しい客「それによると●●も◎◎やってたらしいです」
◎◎に興味がある客「えーっ! 意外! 帰りファミマで□□買います」
いろいろと無知な客「結局、●●って◇◇なんですか?」
□□に詳しい客「さすがにそれはないと思いますよ」
◎◎に興味がある客「私の先輩が言ってたんですけど、ウーンヌン、カーンヌン」
全員「え、ええーーーーーー!!」

 うーんと、まあ、こういう感じか。さりげなさ、伝わったかしら。こういうのが「見えざる手」。今はわかりやすく、言葉を例に出したけど、所作とか目線とか、ちょっとした小さな行動で、同じようなことをやってしまうこともある。
 上の例で、もしバーテンが「□□ですよね」という形で口を挟まなければ、□□という単語は場の上に存在せず、□□に詳しい客も出る幕がなかったかもしれない。声のうるさい客がそのままわめき続けていたかもしれない。状況をさりげなく操作して、場を活性化させるのも、この手のバーではバーテンの仕事。バーテンは、場を掻き回す見えないマドラーを常にその手に持っているのである!(ドヤ!)


 ちなみに僕の場合。ゴールデン街のバー、おざ研、ランタンと、「手」の使い方はずいぶん変わってきている。特に今やっている「ランタンzone」は、場の自由度が極めて高く、形式上「バーテン」が存在しないため、本当にもう、これまでとはだいぶ違った感じ、だと自分では思っている。バーにいた頃はけっこう意識していたけど、今は本物の「見えざる手」に頼ってしまうことが増えている。こないだなんかすべてを放棄して将棋にふけってしまった。といって別のタイミングでは、まさにさりげなく、「何か」をしてみたりもする。そういうブレかたも、「ランタン」ならでは。とにかく、「こういう時はこうする」という法則なんてのはつくらずに、柔軟性は失わずにいたい。たまに実験的な手を指してみるのも重要だ。その時は負けても、長い目で見れば強くなれる。なんてことは羽生さんが言っていたな。

 ぜんぜん関係のないようだけど、ほんの少しだけでも将棋をやっていたからこそ、こういう考え方になっているのだと思う。あるいは演劇。ダンスをやった人は、ダンスで喩えるのだろうな。


 タイトルにある「場の支配」について書くのを忘れてしまった。「法の支配」という言葉をもじったのだが、これについてはまた長くなりそうなので、稿を改めるといたしましょう。

 

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