少年Aの散歩

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限界芸術と文化祭(と茶番)

純粋芸術は、専門的芸術家によって作られ、それぞれの専門種目の作品の系列にたいして親しみをもつ専門的享受者をもつ。大衆芸術はこれまた専門的芸術家によってつくられはするが、制作過程はむしろ企業家と専門的芸術家の合作の形をとり、その享受者として大衆をもつ。限界芸術は、非専門的芸術家によってつくられ、非専門的享受者によって享受される。

鶴見俊輔「芸術の発展」、講談社学術文庫『限界芸術』またはちくま学芸文庫『限界芸術論』より)

 

「非専門的芸術家によってつくられ、非専門的享受者によって享受される」ところの限界芸術に、ずっと興味がある。素人がつくって、素人がうけとるもの。学校の文化祭というのはまさにこれだ。

 文化祭で中学生によるミュージカル『サウンド・オブ・ミュージック』を観た。本当に素晴らしくて、涙が出た。何がそんなに良かったか、という話はひとまずおくが、僕の感動したそれは「限界芸術」と呼ぶべきものであった、と思う。
 原作は有名な映画だから、正確には素人の創作ではない。肝となる名曲たちも当然、原作の歌をプロが訳したもののはずだ。しかし演じているのはずぶの素人である。であればこその、美しさ。映画に出てくる子役はあくまでもその道のプロ、しかしこちらは本当に、ただの中学生なのである。そのリアリティは、企業や芸術家にはなかなか演出できないものだ。
 中学1年のあるクラスは、生徒が自作した脚本で演劇を上演していた。何もかもが拙かったが、限界芸術は質を問われない。彼女たちは表現をした。それは必ず、少なくとも一部の生徒にとっては、大切な経験になっただろう。客である僕にとっても。
 演劇部も、軽音楽部も、吹奏楽部も、ダンス部も、書道部も漫画研究会も文芸研究会もその他も何もかも、「限界芸術」として一流のものであった。というより、限界芸術に一流も二流もないのである。二日間、心から楽しんだ。

 ところで、文化祭には「教員による演し物」がつきものである。今回のそれはたぶん「限界芸術」と呼べるものではなく、ただ「祭り」にのみ属する種類のものだった。
 先生というのは卑怯である。出てくるだけで面白いのだ。いかめしい校長先生がダンスを踊れば、そのギャップでワーッとなる。どんな先生でも、出てきて、ただおちゃらけていれば、それなりのウケをとれる。僕もさすがに、ふだん仏頂面か苦笑いしか見たことのないような壮齢の先生がステージに出てきた時にはちょっとニンマリしてしまった。
 ふだんは厳しい先生も、年に一度だけおちゃらける日。それが文化祭なのである。

 どこかのお祭りで、一日だけ王様がみすぼらしい格好をして、平民たちに追い立てられる、というものがあると聞いた。典型的な「ガス抜き」の祭りだ。
 日本の宴会芸も、これに近いものがある。偉い人がおちゃらけたり、いじめられると、面白い。偉ければ偉いほど、面白い。ふだんとのギャップが、増せば増すほど。
 子供たちは逆だ。ふだんおちゃらけていても、文化祭では真面目な顔になる。一所懸命に磨いた芸を、真剣に披露する。

 ふだんの在り方が、祭りの在り方を規定しているような気もするし、逆に祭りの在り方が、ふだんの在り方を規定してしまっているような気も、する。

 先生たちはどうして、まともな「芸」や「芸術」をやらないのだろうか? 理由はまあ、忙しいからだろう。五分で憶えられるような単純な振り付けのダンスや、即興でこなせるようなゲーム的なものを見せて、それでワーッと受けるのだし、わざわざ大変なことをすることもない。
 ただ、もしも学校のお祭りを文化的なものとしたいのであれば、教員のほうが率先して原始的なカーニバルのほうへ持って行く必要も、ないんじゃないかとは思う。

 中学生の時、文化祭である先生が長渕剛の『乾杯』か何かを弾き語りした。あまり好きな先生じゃなかったから、その時はどうでもいいな、と思ったが、何か印象に残っている。
 高校では谷川俊太郎の『生きる』を教員が群読したり、なんてのがあった。
 文化的で、とてもよいと思う。

 べつにこのたびの先生たちの演し物がまったく文化的でなかった、などと言うつもりはない。ちょっとは文化的だったかもしれない。でも、本当にそれしかなかったのだろうか? とは思う。
 そりゃあ、真面目なことをやっても場は沸かないだろう。ワーッと盛り上がるには、おちゃらけたり、ギャップで勝負したほうが早い。
 ただ、祭りの在り方がふだんの在り方と相互に規定し合うのかもしれない、という発想は、持っていたっていいはずだ。
 一芸に秀でた先生はいるはずで、どうせやるならその人たちにスポットを当ててみては? とか。そうしたら子供たちだって、未来に対して明るい展望が見えるかもしれない。
 子供たちが先生のことをどう思っているのかって、そりゃ「勉強ができる人たち」で、そういう人が「文化祭」ではおちゃらけることしかできない、のだとすると、勉強なんてのは、やっぱつまんないものなんだな、って思ってしまう。逆に勉強の超できる先生たちが、自分たちよりもうまく歌い、自分たちよりもうまく踊るのだとしたら?

 祭りというのはけっこう大切なものだ。
 生徒たちの「限界芸術」を目の当たりにして僕が思うのは、「やっぱりこの子たちのことは尊敬しなければいけないのだ」ということである。
 生徒たちがただおちゃらけているだけならば、そんなこと思いはしない。

 

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