少年Aの散歩

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倫理という罠 倫理ではなくて

 9/22(木)、早稲田大学文学部キャンパスの向かいにある「あかね」というお店に初めて行ってきた。自らの政治的立場を「左」と自認する人々が主に集うお店、と言って間違いはないと思う。

 収容人数10名程度の狭いお店で、チャージが200円、ソフトドリンク200円、缶チューハイが300円、瓶ビールが550円、ナッツ200円、缶詰250円、その他食べものは適当にその都度値段が設定される、という感じ。伝票は一応あるようだが慣れている人は自己申告でお金を払う。店員は曜日代わりでボランティア。店員と客の境目は曖昧。
 この店の「価値観」はそんな感じである。形式としてはかなり、僕のやりたいことに近い。しかしそこにあった「言葉」は、僕の好きなものとはだいぶ違った。

 この日は「イベント」があって、「安保法案」というテーマをもとに十名前後で話し合った。なぜ僕がこれに参加したのかというと、大学時代の恩師が参加するという情報を得てのことで、「安保法案」なるものに一家言あるわけではない。
 だから、ときおり僕は困った。
 その日「あかね」に集った人たちは、例外なくみんないい人であった。そのように僕には見えた。初めて来店した僕に気を遣ってか、何度か質問を投げかけてくれた。しかしその質問は、僕を困らせるものでしかなかった。

「安保法案をどうするべきだと思いますか?」
自衛隊についてはどう思いますか? 軍隊にすべきですか? 現状維持派ですか?」

 そんなこと、僕は考えていないのだ。
 安保法案には賛成でもなければ、反対でもない。自衛隊にしても、何の積極的な意見も持っていない。だから、この質問には答えられない。
 ただもし、「○○という目的のためには、安保法案をどうするべきだと思いますか?」とか、「○○という目的のためには、自衛隊をどうするべきだと思いますか?」と問われていたなら、僕は少ない知恵を必死に絞って、考えてみたと思う。
 僕にはそういう方面の主張など一切ないので、安保法案やら、自衛隊やら、あるいは「誰に投票すべきか」といった政治的な内容について、意見を求められても困る。
 ある程度の知識はないではないし、考えることだって嫌いではないから、目標さえ設定してもらえば、そこに向かっていくための道筋を話し合うことができると思う。
 しかし彼らが聞いてくるのは、「あなたはどうすべきだと思うか」という「立場」なのだ。「あなたの理想とする目標と、その達成手段」を聞いているのである。
 僕には、というか、ふつうの人には、安保法案や自衛隊の在り方が関わってくるような「目標」などない。どこかでは関わってくるのかも知れないが、それは無数にある関連要素のうちのたった一つで、さほど巨大なものではない。大げさにいえば、「あなたの目標のために、空気中の酸素の割合はどの程度になるべきだと思いますか?」とたずねられているようなものだ。個人の肌感覚からは遠すぎる。
 ここでもし、「人間が少しでも長く生きるためには、空気中の酸素の割合はどの程度になるべきだと思いますか?」と質問されたなら、僕は胸を張って「わかりません」と答える。とりあえず人間と酸素との関係をネットや図書館とかで調べてみるしかないだろうな、というくらいのことをぼんやりと思うだろう。
 目標がわかれば見当はつくが、目標がない場合、どうも答えようがない。

 質問してくる彼らは、何か「前提」を隠し持っている。それは倫理観である。似た思想を持つ者同士で共有している理想、すなわち「目標」である。
 結局のところ、彼らは「あなたは自分たちと同じ倫理観を持っていますか?」ということを問うているのではないだろうか。
 そして倫理観が近しいことがわかれば、「その倫理観をお持ちならば、当然このように考えるのが妥当ではないですか?」というふうに、論を展開してくる。
 倫理観がずれれば、「あなたの考え方はおかしい」と言われることになるわけだが、「考え方」というのは論理性ではなくて、もちろん「倫理観」のことである。

 たとえば有名な倫理観として、「戦争は避けるべきだ」「人名は何よりも尊い」というのがあって、安保法案や自衛隊について質問してくる人の多くは、当然のようにこれを前提としている。そうなると、「軍隊は持つべきではない」というふうに、話が流れがちになる。
 あるいは、「憲法は絶対にまもられなければならない」という倫理観が前提としてある場合、「自衛隊を軍隊にしよう」と言えば「憲法にはこう書いてあるんですよ」「あなたは改憲派なんですね?」ということになって、「憲法9条は世界に誇る云々~」という流れになったりする。(この日、そういう議論になっていたわけではない。)
 こうした倫理観に乗っかってしまうと、「軍隊にすべきだ」派の人も、「戦争を避けるために抑止力としての軍隊を持つべきだ」という論理展開になりがちである。
 あるいはもう一つ、超有名な倫理観は「日本は経済的に豊かであるほうがいい」で、これがやってくると、「軍需産業は日本にとって~」とか「防衛費が~」になる。
 こうした倫理観を「共有」(賛成、反対を問わず)してしまうと、賛成と反対との数直線上でしか話し合いができない。貧しい会話である。
「戦争は避けるべきか、そうとも言えないか」とか「戦争を避けるために、自衛隊を軍隊にすべきか、すべきではないか」とかいった、二者択一的なわかりやすい話に、一度入り込んでしまうと、なかなかそこから出てくることができない。そうやって視野はどんどん、狭くなっていってしまう。
 数直線の上に、あるいは「座標」の中に、閉じ込められてしまう。
 世の中はそんなに平面的にはできていないというのに。

 数直線や座標というのは、ごく狭い範囲のことを考える時には便利だが、広い世界のことを考えるのには向いていない。
 一般的な学校の勉強というのは、その能力ばかりを膨らませるもので、もっと広い世界のことを考えるためには、ぜんぜん別の能力が必要である。
 先日「爆笑問題カーボーイ」というラジオ番組(9月27日25時~放送)で太田光さんが話していた、小林秀雄が紹介した柳田国男のエピソードを思いだす。
 ものを考えるのに大切なのは論理性ばかりではなく、あるいは単純な倫理観ばかりでもない、と思う。

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