読者です 読者をやめる 読者になる 読者になる

少年Aの散歩

<a href="http://ozakit.o.oo7.jp/">本館はこちら</a>

木戸銭システムと僕の好きなお店について。(芸術、生活、価値観、お金)

 おざ研・ランタンにおける「木戸銭システム」は、「お金とは、何に、どう、どのくらい使うべきものなのか」という問いに対して、一つの解答となるような、価値観を提示するものである。

 四谷三丁目、荒木町にある「私の隠れ家」というお店は、信じられないほど素敵なお店の中で(信じられる音楽を聴きながら)、信じられないほど素晴らしいごはん(おかずが十品くらいつく)を頂いて、食後にコーヒー(夜はほうじ茶)とかりんとうを楽しみ、何時間でもくつろいだ後に、千円だけ払って店を出られるという、信じられないお店である。
 そんなお店をおそらく一人で作り上げ、ほとんど一人で切り盛りしている女の人を、僕は心より尊敬し申し上げているし、彼女の作り続けている「芸術」を、本当に愛している。
「隠れ家」が表現しているものは、星の数ほどあるはずだけど、例えばその一つは「お金についての価値観」だと思う。
 隠れ家では、ごはんを食べて、軽くお茶して、千円である。千八十円ではない。千円札を一枚出して、それで終わり。これが隠れ家の提出する価値観であり、思想なのだ。(と僕は思っているが、こんな言葉たちはたぶん、あのお店にはちっともふさわしくない)。
 僕は隠れ家で「お釣り」をもらったことがほとんどない。ひょっとして一度もないのかもしれない。「お金のやり取りに要する時間と手順が極めてすくない」というのが、隠れ家における「お金の価値観」の一部であり、僕があの店を愛する理由の一つである。
 僕のやっている「木戸銭システム」は、千円だか五百円だか好きな額を箱の中にポイ、と入れてもらって、それで終わり、というものなので、隠れ家の感じとよく似ている。ちなみにおざ研にもランタンにも、「お釣り」という概念はない。「お釣りをください」と言われたら、「そういうことはやっておりません」と答えた上で、「両替なら(誰かが)できるかも」と答えるようにしている。
 おざ研時代は「目安は千円」としていた。隠れ家と同じなのは偶然の符合でもありつつ、価値観の類似による必然ともいえる(いいたい)。運命とさえ言いたくなる。隠れ家との出会いはおざ研を開いて後なので、影響を受けているわけではないのだ。

「お金についての価値観」。僕がおざ研やランタンによって表現していることは、幾つかはまあ、あると思うが、たぶんその一つにはこれがある。
 というかお金を発生させるあらゆるものは、必ずこの価値観を表現しているはずである。それが松屋でもガストでも。
「私の隠れ家」を芸術というなら、松屋やガストはエンタメかもしれない。誤解は避けたいのだが、僕は松屋もガストも好きである。サイゼリヤならば、愛しているとさえ言っていい。ただしそれはエンタメとして。……サイゼリヤなんかは芸術の域に達していると言って差し支えなさそうだが、サイゼリヤはエンタメの枠の中でこっそりと芸術しているからカッコイイのである。小沢健二さんの『LIFE』のようなものである。(うん。)
 エンタメと芸術の境界をつけるのは難しいし、今はどうだっていいのだが、どちらもすばらしいものではありつつも、はっきりと僕は芸術を愛している。
 何故かといえば、エンタメはそうでもないのだが、芸術は必ず、人間の人格に辿り着くからだ。ひょっとしたらこれが、「エンタメ性」なるものと「芸術性」なるものを峻別する境なのではあるまいか。
「隠れ家」の芸術性は、純子さんという一人の素敵な(素敵すぎる)お姉さんの人格に帰因する。AJITOならアミさんに、未来食堂ならせかいさん、SLIME BEならあんこさん。人と店が一体となったような、居心地の良い場所。芸術だなあ、と思いながら、その空間にひたることがとても好き。
 これらのお店は、僕がいくくらいだから、どこも安い。「安い」「お手頃」「リーズナブル」、そんな言葉を貼られそうな価格帯。でも、大切なのは「安いか高いか」といった数直線上のどっち側にあるのか、なんて話ではなくって、その数字にいかなる価値観が練り込まれているのか、ということなのだ。
 人は、「価値観」の存在しそうな所には、まず警戒して二の足を踏む。それから、自分に合いそうだとか、受け容れてくれるだろうと思えば、あるいはそれを願うなら、えいやっと足を踏み入れる。安いところになると、ねだん以外の「入りにくさ」が浮き彫りになる。高ければ「高いから」で済ませられるが、安い場合は「価値観」と正面衝突する。(新宿ゴールデン街の今の面白さはそういうところにあるのかも。)
 僕の好きなお店は、「どうだ」とばかりに、半ば喧嘩腰に、どしんと価値観を据えている。「入ってこれるか?」とにらみをきかせる、門番のように。
 あのお店たちが「安い」のは、できるだけ多くの人にその「価値観」と向き合ってみてほしい、ってことなんじゃないかな、と思う。
 おざ研・ランタンで値段の下限を(上限もだけど)定めていないのは、できるだけ裸の状態で「価値観」と向き合ってもらいたいから、だったんだなあ。(こういうのは大抵あとからわかる。)それでも「目安」を提示している訳は、「その方が払いやすいから」と、「入る金額のざっくりとした目星をつけたいから」。目安の額は、家賃や経費をまかなうためには、何人がいくら払ってくれたらよいのか、という観点から決めている。

 芸術、生活、価値観、お金。
 それが「人格」にどう関わってくるか。
 その実践で人生は終わりそうである。


 そんな考え方を基盤として、ずっと考えている「限界芸術」について、「中高の文化祭」を題材として考えてみようと思う。(それはまたそのうちに。)

 

ozakit.o.oo7.jp