少年Aの散歩

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自分のために何かをすると年をとるの!

 自分のために何かをすると年をとるの!
 他人のために使える時間が若さなの!

 

 

 

 自分のために時間を使うと年をとる。
 他人のために時間を使えば年はとらない。

 逆のような気もする。一般的には逆のイメージなんじゃなかろうか?
 でも、「自己中心的なやつは老けやすい」と言い換えたら、そんなような気もしてくる。

 赤ちゃんは、たぶん自分のために時間を使う。
(「使う」という表現がふさわしいかは知らない。)
 子どもはだいたいそうである。だから、すぐに年をとる。

 じゃあ、妻子のために働くおじさんは、年をとらないのか?
 たぶんこの場合、「自分=妻子」あるいは「自分+妻子=自分たち」というふうになっているから、結局は「自分のために働く」ということになって、やはり年をとる。
 あるいは、「ために」ということの内容が、結局は「金」に変換できることでしかなくなって、有名無実化し、「ために」の効力が失われていくとか。
 何にせよ、こじつけられそうだ。

 でも、だったら、「他人のために時間を使う」ってのは、どういうことなんだ?
 いろいろ想像はできる。
 ともかく、抽象的にだけいえば、たぶん「独り善がりにならないでいる」ということだろう、と思う。「できるだけみんなのことを考える」だと思う。


 できるだけみんなのことを考える独り善がりにならないでいる


 なんと立派な57577!!
 なんてことはおいといて。そうだとおもう。

 学校で働いていると、「本当に自分本位だな!」と思うことがたくさんある。もちろん、生徒に対して。といって、たいして苛つくでもなく、「まあ子どもはそういうもんなんだよな」とか思って、淡々と対処している。(ストレスはたまるけどね。)
 そういう子は、たぶん、すくすくと育っている渦中である。
 若いうちはそれでいいが、来たる先に待っているのは老いであるので、老いるのが嫌であればどこかで方向転換しなければならない。しかし「老いるのは嫌だ」などというこれまた自分本位な考えを全開にしていると、やはり「自分のために時間を使う」という状態になり、意志に反してどんどん老けていく、であろう。何も考えず、ただひたすらに「いいやつ」であることが肝要なのだ。たぶん。

「自分のこと」だけを考え続けると、思考のパターンが一定化してくる。単純になってくる。頑固おやじはある決まった回路でしかものを考えない。顔も頭も石のようになっていく。柔軟性はない。そうするとやはり、老ける。
「できるだけみんなのことを考える」をすると、ものすごく複雑な思考のパターンが必要で、頭は活性化され続けるし、相手や状況によって表情や立ち居振る舞いも変えていかなきゃならないから、柔軟性を保つことができる。

 いわゆる「難しい」ことばかりを考え続けても、たぶんよくない。論理的な思考能力は錆びつかなくても、「論理」というたこつぼの外側にあるものがだんだん見えなくなっていく。難しいことを考えるよりも、たくさんのことを感じたり、柔らかくいろんなことを想ったほうが、たぶんよい。
 よいというのは、ここでは「年をとらない」であるが、「年をとったらだめなの?」という素朴な疑問についても、考えておかねばならない。

 単純に、僕がここで「年をとる」と言っているのは、「いやな年齢の重ね方をする」の意である。そういうニュアンスが、当然多分に含まれる。
「いい年齢の重ね方」をしている人は、それが見た目にも反映されて、「若々しい」とかいうふうに言われることが多い。そうでなくても、「感じがいい」とか「気さく」とか「いい人」とか、前向きの言葉でもって語られやすい。
「いやな年齢の重ね方」をすれば、そうはならない。当たり前だ、やなやつなんだもん。
 やなやつ、というのは「他人のことを考えない」である。邪悪という言葉の(僕による)定義と同じである。自分のことしか考えないと、思考は柔軟性を失っていく。柔軟でなくなれば、若さも同様に失われていく。だから、やなやつに若さはない。若さは柔軟性と同期するからだ。

 余談だが、年の若い人間はみな柔軟である。しかし、かなり小さいうちから「柔軟であろうという努力」を相当懸命にし続けないと、絶対に固まってしまう。十歳で固まり始めていたらもう手遅れに近い。その後十年から二十年かけて、頑固への道を少しずつだが着実に歩んでいくだろう。柔軟であるためには、「柔軟であろう」という努力というか、方針が、必要である。粘土だってこね続けなければかたくなるのだ。

 家庭や学校で植え付けられた「常識」を、自分の頭で再検討するには、相当の柔軟性が必要だ。「本当にそうか?」と疑う練習を必死にやっておかなければ、その柔軟性は育たない。練習が不十分だと、「本当にそうか?」のあとが続かない。「本当はこうかもしれない」を、百個でも千個でも考えられることが、柔軟性というものなのだ。そのための練習が、若いうちには必ず必要で、それをやってこなかった人が、どんどん年をとっていく。
「本当はこうかもしれない」をたくさん思いつく人は、気配りが上手である。「こうすれば気分がよくなるだろう」という「ピンポイントで正解を当てる」方式ではなくて、「こうすると気分が悪くなるかもしれない」「こうすると気分がよくなるかもしれない」という無数のヒントをもとに、外側から水攻めをするようにじわじわと正解を導き出していくので、致命的に間違えることがあまりない。
 もちろん、後者の方式は時間がかかる。前者のように「こうすればいい!」という正解をダイレクトに出せてしまったほうが、話が早くて、効率的である。でも、じっくりと丁寧に考えてあげたほうが、いい結果が出やすい。時間をかけたほうが、相手がいい気持ちになる確率が上がる。これが「他人のために時間を使う」だとすると、それは優しさと柔軟性の証明のような行為であって、まあ、いいやつのすることである。僕のいう「年をとらない」とは、そういうこと。

 

 

 自分のために何かをすると年をとるの!
 他人のために使える時間が若さなの!

 

 

 時間を、自分のものだと思っているような人に、時間は必要ない。
 だから若さは剥奪される。
 他人のために使える時間が若さなのである。

 

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自分の自信の中に相手を取り込んではいけない。

 自信がある、ということは大いにけっこうであるし、この世にある心の問題の多くは「自信がない」ところに端を発する。自信がないとは自己肯定ができないということだ。自信はないより、あったほうがいい。しかし掟がひとつ。「自分の自信の中に相手を取り込んではいけない」これである。

 自信というのは、あくまでも自分が持つもの。自分を信じる、信用する、信頼する、確信する、そんな気持ち。相手の気持ちはこの際、関係がない。
 だが自信家の中には、対する相手にそれを要求する者がいる。

「おれはすごい」と思うだけならまだ健全だが、周囲にも「すごい」と思ってもらいたがるのは、いけない。あるいは、「すごい」ということを客観的な前提として、話とか、ものごとを進めようとするのも、だめである。自信とは、主観的なものでなければ。
 自信とは孤独なものである。自信の根拠は、自分の胸の中にしか存在しない。自分だけがいくら自信を持っていようと、相手がどう考えるかは別の話なのだ。自分による評価(=主観的な自信)と、他人による評価とを、きちんと分けて考えられることが、「分別がある」ということだし、「謙虚」ということであろう。
 自信を持つとか自己肯定するということは、自分によってのみ行われなければ仕方ないことで、だからそのための「承認欲求」は空虚である。他人から「承認」されたところで、ほんとうの「自信」は育まれない。自信とは本来的に、他人を巻き込まないものだから。もしも「承認」によって「自信」のようなものが生まれたのだとしたら、それは「他人を巻き込む自信」であり、謙虚さに欠けた、尊大なものになる。「おれはすごい。な、そうだろ?」という形で、他人にウンと言わせない限り存在を許されない、虚ろな自信である。
 そんな虚ろな自信でも、藁をつかむようにほしがる人たちがいる。彼らには孤独が耐えられない。自分の中で、自信を熟成させることができない。
 そういう、孤独に弱く、常に「承認」が必要なような人は、いっそ自信など持とうとするのは諦めたらどうか。「自己肯定」などという神話は捨ててしまって、周囲の人たちとひたすら楽しく暮らせばいいじゃないか、と。実際そのような人たちはたぶんたくさんいて、そうでないわずか一部の我利我利亡者どもが、「尊大な自信家」として今日も大声でわめき立てている、のである。マル。

「自信がない」ことが問題となるのは、「自分」を基軸に生きていこうと努めるからである。そうでない生き方がもしもあるなら、自信の有無は問題にならないのではなかろうか。

 自分が基軸にならない生き方。いくらでも想像しうる。

 とはいえ、「自分たち」を基軸に据えるのも、場合によっては考えものである。「自分たち」に対して自信を持ち、その自信に相手を巻き込んでいった場合、また騒動が起こるのである。(勧誘の激しい宗教団体を想像していただきましょう。)
「基軸」をどこに置いてもかまいはしないが、結局のところ、それを他人に押しつけちゃダメだよね、というだけの話なのだろう。
「自分たち」を基軸とするのなら、その自信についての肯定を、外部に求めてはいけない。それが謙虚というものだ。もちろん「自分」を基軸に生きる場合も同じである。「子」を基軸に生きる場合、その自信に他人を巻き込めば即、親バカと言われる。「親」を基軸にすれば「親孝行」だが、その中に他人を取り込むとなると、「てめーの親のことなんて知ったこっちゃねえんだよ!」となる。われはわれ、かれはかれ。それぞれに大切にするものはあっても、押しつけちゃいけない。当たり前のことである。スポーツマンでもオタクでもなんでも一緒だ。

 話を、個人の自信家に戻す。「おれはすごい」という自信があるのはけっこうだが、「おれはすごいよな?」は傲慢である。これも当たり前の話なのだが、そういう謙虚さのない人は無数にいる。職場にもいるし、飲み屋にも、電車の中にもいる。
 自信の中身を「おれはすごい」のみに限定するとわかりにくいので、「おれはできる」や「あたしはかわいい」についても考えてみよう。
「おれはできる」のだから、周囲からもそのように扱われたい、というのはよくわかる話であるが、「おれはできる」という確信は、自身の中にのみある、主観的な感覚でしかないから、それを他人にもわかってもらおうというのは、虫のいい話である。
「あたしはかわいい」も、まったく同様で、主観的な話であるから、他人にそういう感覚を共有してもらうことは、できないと思っていたほうがいい。
 そういうふうに人間は原則として孤独なのである。
 謙虚さとは、孤独であることに耐え、それを当たり前と考えることだと思う。

「おれはこう思うんだけど、まあみんなもだいたいそう思うよね?」
 というのは、自分の心の中にだけしまっておくべきことで、それを前提にものごとを進めていこうとするのは、傲慢だし、「そうでない」という可能性を無視する、一種のギャンブルである。
 そういうやつを「やなやつ」と思う。

 

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お茶の淹れかた

お茶の香りがしてる
その中に立っていた茶柱が
マッチに見える
静岡茶とか鹿児島茶とか伊勢茶だとか言うけれど
そんな言葉に興味はないぜ ただ鉄の急須でお茶淹れて
揺らしてるだけ 自分の湯飲み 揺らしてるだけ
(BLANKEY JET CITEA/お茶の淹れかた)

 

 現実的なこだわりとしては、大須の万松寺通り商店街にあるお茶屋さんか、掛川か清水あたりかで静岡茶買ってくる、ってのがあるけど、そういうことさえも本当はどうでもいいのだと悟った。
 お茶に貴賤なし。改めてそう思う。

 先日「お茶(緑茶)は上手に淹れられないからあまり飲まない」という言葉を聞いた。そういう人はけっこう多いと思う。
 お茶をそれなりに美味しく淹れるのは実際のところ、全然難しくない。清水に住まう友達のお母さんに「おいしいお茶のいれかた」をたずねたところ、「温度よ温度。たくさんお茶っ葉を淹れて、ちょっと冷ましたお湯を注ぐだけよ」とのお返事があった。毎日何度も何度もお茶を淹れ続けている(静岡人は急須……いや土瓶のお茶を切らすことがないのである)人の言葉はじつに説得力があった。ずいぶん肩の荷が下りたというものである。
 しかしこの「温度」というのがじつにくせ者で、忙しく面倒くさがりの現代人はつい「熱湯のまま注げる」手軽さに惹かれ、紅茶やインスタントコーヒー(特に粉末のやつ)を好む傾向にある。お茶を淹れるために、お湯をさます、あの一手間が手間なのだ。急須で淹れれば急須を洗う必要も生じ、これまた手間である。それら手間を引き受けて淹れた割りには、さほど美味しくもないのだとしたら、やはりお茶からは意識が遠のく。避けてしまう。
 僕からしたらコーヒーというのがそういう存在である。手間がかかるわりに、おいしくできない。自分にはコーヒーをいれる才能がないのかもしれない。しかしいつかおいしいコーヒーが自分でいれられるようになりたいので、冬休みにでも馴染みのある名古屋の喫茶店で修行させてもらおうかと考えている。

 ただ、お茶にせよコーヒーにせよ、おいしく淹れるための唯一最高の方法を最近悟った。愛するということである。
 どのお茶も愛すること。愛し続けること。お茶に貴賤なし、と思うこと。うまいか、まずいかさえ考えず、ただその目の前の一杯のお茶を愛して飲み続けること。
 きれいごとを言っているようであるが、どんなことでも結局はそうなのではあるまいか。
 おいしい・おいしくないなんてのはどうでもいいのである。ただお茶を愛して、飲むのである。おいしければ「おいしい」と思い、おいしくなければ、特に味のことは思わない。そしてまた次の一杯、次の一杯と、淹れ続け、飲み続けるのだ。
 徒然草の「初心の人、二つの矢を持つことなかれ」だとか、『モモ』のベッポじいさんの掃除のやり方なんかが似たものとして思い浮かぶ。ただ目の前のことだけに集中する。それが「一期一会」なるものなのだろう。……適当に考えていたら利休にたどり着いた! ので、たぶんそれなりに妥当なはず。
 味がなんだろうがお茶はお茶。茶葉が古くなって香りが損なわれていようが、それがお茶である限り、お茶として愛する。それがあらゆることに対する心構えとして、一定の正しさを持つものと信じたい。

 

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場の支配(2) 法の支配のように/未来に対して優しい態度

王様「グヘヘ~。国じゅうの柿をわしのものにするぞ~。柿をとりたて~い。柿じゃ柿じゃ」

側近「なりませぬ、陛下」
王様「ええいなぜじゃ」
側近「ほかの柿が食えなくなります、じゃなくて、そんな超法規的なことをしても、いいことはありません。現行法では、国税はすべて桃で納めることになっています」
王様「では法律を変えい! 桃3、柿7の割合で徴税するのだ!」
側近「ううーん、しかし……」
王様「なんじゃ、法律を変えれば文句なかろう」
側近「それはそうなんですけど、お治めが王様になっている、じゃない、王様がお治めになっているこの地方では、五億年前から、支配者や目上の者には桃を差し出すべし、柿は猿に投げるべし、という慣習があるんですよ。五億年間、民衆はただそれだけは絶対に守り続けています」
王様「しかしわしは絶対君主だ」
側近「確かにそうたい。ばってん、絶対君主でも侵せない法があるのですよ」
王様「それではどうすればいいのだ、柿が、柿が食いたい!」
側近「王様が猿になればいいんじゃないですか」
王様「カッキ的!」


 ざっくり、ざっくり言うと、「法の支配」とは根本的にはこういうことかと、理解しております。絶対君主であっても侵せない法。それは必ずしも明文化された「法律」というものでなく、長い間、ないし多くの人々のうちで、共有されている自明な法。
 それをもじって、「場の支配」。

 場にはけっこう、場を取り仕切る人、というのが存在する。
 場を取り仕切る人は、「場の支配」をわきまえていなければならない。場を取り仕切る人は、その人がどれだけ偉くて、権力があっても、その「場」のあり方を尊重しなければならない。絶対君主のように、「ここの法律は俺だ!」というような態度になってしまっては、そこはもう「場」とはいえない。(そのようなものとして僕は場なるものを想定している。)
 僕がこれまでに経験した、「いやだな」と思う場には、たいてい「専制君主」と「愚民」がいた。
 専制君主は、場を侵す。自分勝手に、場を塗り替えようとする。愚民は安易にそれに乗る。あるいは耐え忍ぼうとする。そうなれば衆愚政治である。

 法とは、みんなでつくるもの。「みんな」とは、今その国に生きている人たちだけでなく、過去生きてきた人たちや、これから生まれてくる人たちも含めての、「みんな」。そう考えることが絶対に健全だと僕は信じる。今だけでなくて、過去と未来に目を向けること。それは大切。
 そして場というものも、法と同じく、「みんな」でつくるものである。過去にそこにいた人や、これから来るかもしれない人も含めた、「みんな」のもの。その場にいる人たちだけで、勝手につくったり、塗り替えたりしていいものではないのだ。価値観の古い人間だから、どうしてもそう考えてしまう。
 そうなっていて初めて、僕の考える「場」というのは成立するのだ。

『場の本』という冊子にも書いたが、僕がしつこく言い続けている「場」というものの原点は、小学生の頃に遊んでいたいくつかの公園である。たまたま通りがかって、「あ、入る?」とか「入れて」が発生すれば、よほど嫌われていない限り、一緒に遊ぶことになる。この柔軟性、流動性こそが、「場」というものの根源的な性質、だと僕は捉えている。
 公園の遊びは、何代も上の人たちから受け継いだものがほとんどで、それに今の世代が味付けをしたり、新しいものを編み出したりして、時代に対応したり、豊かになったりしていく。過去からずっと、繋がっている。(それが明らかに途切れた、と感じたのは、ポケモンが出た時だったが、それも大きな意味では「時代に対応」だったのだろう。わからんでもなかったが、イヤな時代が来たもんだと、当時は思ったものだった。「あまりにも伝統とかけ離れすぎている!」と。まあこれについては異論もたくさんあるだろう、たんなる個人的な感想として受け取ってほしい。)
 そして未来にも、繋がっていく。
 たとえばサッカーをして遊んでいる時に、新しいメンバーがやってきた。そのメンバーは、何らかの事情があってサッカーができない。そこで「いまサッカーやってるんだからダメだよ」と言うこともできるが、それは「未来に対して優しくない態度」である。現在だけを大切にした考え方。場における、未来に対して優しい態度というのは、「新しい人が来ても受け入れる態勢でいること」だと思う。「この子はサッカーができないから、別の遊びにしよう」とか、「サッカーのルールをちょっと変えて、この子にも参加できるようなものにしてしまおう」とかいった柔軟性、流動性が、「未来に対して優しい態度」だろう、と。

 むりやりこじつけてしまえば、最初の王様と側近の会話。あれだって、柿を食べたくても食べられないとしたら王様は可哀想だ。なんとか、王様が猿の格好をして領内を練り歩き、柿を投げられ、拾っては泣きながら食べる、みたいなことが実現したら善い。なんと柔軟性のあるすてきな国だろうか。それが、過去を尊重し、未来にも優しいということだと思うし、場とか国とか組織とかいうものは、すべてそのような柔らかさを持っていてほしい、と、切に願う。

 

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非常勤講師の給料/環境を愛することから

 今朝は六時に出勤した。今が旬の時間外労働である。
 非常勤講師というものは通常、担当するコマ数に応じて給料が定まっているもので、残業という概念がそもそもない。まあだいたい、一コマ一万円前後と考えていいと思う。「高給取り!」と言いたくなるかもしれないが、さにあらず。ここでの「一コマ一万円」とは、「週に一コマを一ヶ月間担当した場合、月に一万円が支払われる」のideal……意である。なんの話かカン(環)の話か。要するに、一回の授業に支払われるのは二〇〇〇~二五〇〇円程度というのが、本当のところなのだ。
 ということは、一コマにつき二時間も時間外労働をすれば、いともたやすく時給は千円を切ってしまう。今日は六時に出勤し、二コマの授業をこなし、退勤は夕方の六時くらい。そうなると、100分の授業に対し10時間の時間外労働が発生していたことになる。
 あまり普段は(特にお金に関しては)「割り算」的な考え方をしないように努めている(学費を授業数で割るなど愚の骨頂で、視野狭窄を招くだけだと思う)のだが、今日はちょっと思うところがあって、書いてみる。

 考えたくもない話だが、今日に限れば僕の時給は三〇〇円くらいなのである。もらえるお金を総勤務時間で割れば、2000×1.66÷12=276.7/2500×1.66÷12=345、となるのだ。
 僕の時間外勤務の月計がどのくらいかはわからないが、ずいぶんなのは確かだ。「割り算」をして時給を出せばいわゆる「コンビニでバイトしたほうがマシ」という額になるだろう。
 しかしこういう側面もある。非常勤講師というのは、春・夏・冬の長期休暇にも、(基本的には)出勤を強要されず、給与が支払われるのである。つまり、何もしなくてもお金が入る。すごい!
 それでこれまで、「くっそー時間外労働に手当てが支給されればよいのに!」と思うたび、「いやいや夏休みにも給料もらってるんだから……」と納得しようとしてきたのだが、よく考えたら全然そうでもない気がしてきたので、これは明らかにしておきたいと思った次第である。

 担当授業数が10コマ(このくらいしかもらえない人はけっこういる)であれば10万円、20コマ(相当多い例)であれば20万円、一般的な非常勤講師の月収はいいとこそんなもんだと思ってよい。そこから所得税やらなんとか費やらが引かれる。(もちろんなんとか年金とかなんとか保険とかは引かれず、別途払う。)ああ、なんというワープア! 他に収入源がない場合、かくじつに生活していけない。おそろしい話である。その辺の事情(ほかにいくらの収入があり、この職場ではどのくらいの収入を望むのか)を学校から尋ねられることはないのだが、そういう聞き取りとその可能な限りの反映をこそ、義務化すべきではないのかなあ。授業評価やストレスチェック(これらを行う時間にも手当てがあるべきだとさえ思う)とかよりずっと大事なことだと思うんだが、まあそのような流れにはしばらくはならんであろう。
 さて、日祝日を除く長期休みを長く見積もって三ヶ月とする。僕の場合は出勤する日もかなり多いのだが、フルで休めば春15+夏40+冬15として二ヶ月半弱。これをまあ、敵に塩を送るつもりで三ヶ月としましょう。そうなると10コマしか持たされていない人は4週間ちょい×3ヶ月で、まあオマケして130コマとします。1コマ50分として、108.3時間。まあ110時間としましょうか!
 するってえとですね、それを残り九ヶ月で割りますと(また割り算だ、割り算は邪悪)、12.2時間。月に12.2時間の時間外労働をすれば、長期休みぶんの休日は「チャラ」になるってことです。出勤が週四日なら月に17日として、割ると(割るはワルで悪!)約0.72と出る。43.2分。週三日なら13日出勤として、割ると0.94。56.3分。
 仮に20コマ担当している講師を想定しても、3ヶ月で約250コマ程度、208.3時間、仮に210時間として九ヶ月で割ると、23.3時間。月に23時間20分程度の時間外労働をすると「チャラ」になる。22日の出勤日で割ると1時間と数分。

 結論。非常勤講師の長期休み=「事実上の有給休暇」は、残りの九ヶ月間で毎日40~60分程度の時間外労働をすれば、「チャラ」になる程度のものである。途中途中の「多めの見積もり」をすべて省いて精密に計算すれば、30分くらいになる場合もありそうだ。

 学校では8時15分に朝礼が行われる。授業が始まるのは8時40分。まじめに朝礼に出れば、この時点で25分の超過勤務である。これに加えて10分休みが何回かあれば1時間などすぐにオーバーしてしまう。
 言うまでもないことだが、小テストの採点、提出物のチェック、テストの作成・採点、生徒の相手(志望理由書や小論文の指導をボランティーアで行っているため、時期によっては毎日3~4時間くらいを費やしている)、各種打ち合わせ、授業準備、公開授業のための指導案作成などなど、講師といえども授業以外の仕事はじつにたくさんある。これら以外にも当然、何かしらやるべきことは発生して、それらに手当がつくことは一切ない。すべて「コミコミ」であの値段、である。

 僕は、自らの薄給を嘆いたり、学校への文句が言いたいだけでこれを書いているのではない(まあ多少はある)。ただ、このような待遇では、「学校のために働く」なんていう意識は発生しようがない。このことを雇用側はしっかりと頭に入れておくべきだと思うのだ。だから僕は基本的には、自分と、生徒のためにだけ働く。何をしても金銭的に決して報われることのない非常勤講師の給与体系では、そういうふうに考えられてしまっても仕方ないだろう。(予算がないのはわかりますが、結局組織は人が動かすのだ、ということは忘れるべきでないと思うのです。)

 最近、勤務校の口コミサイトを見た。ひどい評価だった。しかし、概ねは僕の目から見ても真実だった。生徒たちはよく見ている。大人の欺瞞は、すぐにバレる。
 学校の評判をよくするには、説明会で立派なことを言ったり、外面をよく見せたり、新しいことに取り組んだりするだけではだめで、根本的には「生徒たちが自分の学校を好きになること」からすべて始まる。そう僕は信じる。僕の大好きな『がくえんゆーとぴあ まなびストレート!』というアニメでも、大きなテーマになっていた。学校を好きであること、好きでいること。自分の今いる環境を、ちゃんと愛せること。それは自己肯定にも繋がっていく。とても大事なことだ。
 そしてまた、「教員たちが自分の学校を好きになること」も同様に、同じくらい大切であろうと、僕は思う。だから、たとえば講師室の椅子をもうちょっと、いいのに変えてください。お尻も腰もすぐ痛くなって、仕事をするのがつらいです。こういうのがけっこう、勤労意欲の根幹に深く関わっていると思うんだよなあ……。
 あと、共用パソコンのキーボードがダメになったからって、講師がお金を出し合って買うってのは、いったいどういうことなんだろうか? そこは経費なのでは……? そういうことが当たり前に行われてしまうっていうことが、「飼われてる」ってことを無意識に肯定しているような気がするんですけど……。まあ、われわれ非常勤講師は組合にも入れませんから、文句を言うすべもなし、ってことなのかもね……。

 

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親指シフトに隠された音ノ木坂学院のひみつ

親指シフト練習中。

 ……ローマ字入力に戻した。上の九文字を打つだけで五分くらいかかった。初めてキーボードを触ったときのことを思いだして新鮮な気持ちになったが、実用への遠さを実感させられた。
 親指シフト入力というのは、ひらがなを各キーに二つずつ割り当てて、シフトキーを押す・押さないで打ち分けるキーボード入力方式のことである。上達すればめちゃくちゃ早そうなのは確かだが、ローマ字入力に慣れきった身としてはかなり難しいし、専用のキーボードがないとどうやら辛い。(今はふつうのキーボード+専用ソフトウェアで試用してみたのだ)。
 ところで、面白いことに気がついた。親指シフトでは「J」の位置に上から「お・と」、「K」の位置に「の・き」が割り当てられている。ご存じのようにJとKとは隣り合わせなので、親指シフトキーボードには「おとのき」という文字が並ぶことになる。おとのき……?
 いま「おとのき」といえば当然『ラブライブ!』の舞台となっている女子校「音ノ木坂学院」だ。女子高生を表す「JK」に割り当てられたひらがなが「おとのき」というのは、偶然なんだろうか。『ラブライブ!』のスタッフの中に親指シフターがいて、キーボードを眺めながら思いついた名前だとか、そういう事情でもあるのだろうか。
 試しに「音ノ木坂学院 ”親指シフト”」等でググってみたが、見つからない。たぶん偶然なのだろうが、さすが大ヒット作品というのは奇蹟のようなものを呼び寄せる、というところか。くだらないことだけど、面白いもんだ。
 このことをうまくまとめてTwitterにでも上げれば、多少はバズッたりするのだろうか。そうでもないかな。時期もちょっと外した気がする。けど、誰も思いついてなさそうなのが嬉しいので、ここに記しておくとしよう。いつか誰かが「”親指シフト” ラブライブ!」とかで検索して、ここにたどり着いてくれますように。

 

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『しくじり先生』のみそぎ(謙虚さ)

 いま好きなテレビ番組は『しくじり先生』と『ザ・ノンフィクション』。どちらも「人生」のむげん性(無限でも夢幻でもよい)を痛感させられるもので、とても参考になる。「生きてるって重大なことだなあ」という当たり前のことを考えさせられる。「生きてる 生きている その現だけがそこにある 生きることはサンサーラ」とは『ザ・ノ』のテーマ曲の歌詞だが、まさにこれ。生きている、ということはただひたすらに重大なことだ。重要とか必要とか大切とかいった価値判断は抜きにして、ともかく重く、大きい。それだけは言える。

 サンサーラとは「輪廻」と訳されるようだが、サンスクリット語の原義は「流れる」なのだそうだ。日本的な仏教理解とは違った意味になりそうだが、面白そうなのでちょっくら勉強してからこの言葉については語ることにしよう。(いつになるやら。)

しくじり先生』は、かつて「しくじった」芸能人が教壇に立ち、授業の形式で自分の「しくじり」を告白する番組である。芸能人の「しくじり」の中には当然、しゃれにならないものもあり、被害者だとか迷惑をかけた人たちへの「謝罪」も番組内でよく行われる。日本人は本当に謝罪が好きだなあ、と思いつつ、まあ謝罪くらいで「みそぎ」が済むのなら安いものだ。
 僕は昔から、「人間は更生などしない」と考えている。「更生する人間もいる」なんてことはわかっているのだが、「更生しない」と考えるほうが謙虚だと思うのだ。「自分は更生した」と思っている人間がいるとしたら、そいつは「やなやつ」なんじゃないか? と疑ってしまう。反省がないのでは? と。悪いことをした人間は、永遠に自分でその十字架を背負い続けるべきだ。そうであってこそ、他人からは赦されうるのではなかろうか。
しくじり先生』をみていると、その分かれ目をなんとなく感じる。先生たちはみんな、かつての過ちを猛省し、しくじっていた時期とは違う、生まれ変わったような清新な生き方をしている、あるいは、しようとしている。しかし中には、「自分は変わった」「更生した」と自分で思ってしまっていることが透けて見える先生もいる。それはどうも謙虚ではない。また別の「しくじり」を重ねてしまわないか、心配になる。
 人間は変わらない。本来の姿に向かっていくだけだ。そう考えるような謙虚さがあってこそ、周囲から「変わった」と見なされうる、という逆説(国語の先生らしく、つかってみた)を、僕は信じている。「本来の姿」は誰しも捨てたものではないという、一種の性善説だ。(松永太みたいなのは、別かもしれないが。)

 大和美達という「二件の殺人による無期懲役刑で服役中の文筆家」(そういう人がいるのです……久々に調べたらブログやってた)が、凶悪犯がいかに反省しないか、ということを獄中から告発した手記をいくつも出版している。僕はこの事実(たぶん)に注目したい。性犯罪者に再犯がめちゃくちゃ多い、というのもよく言われるし、昔からやなやつだったやつが今でもやなやつだったりとかってのも実際にある。彼らにとってはそれが「本来の姿」なのだろうか? そうかもしれないし、まだ途上なのかもしれないし、二度とそっちのルートには戻れないような呪いにかかってしまっているのかもしれない。謙虚さがあれば、きっと近づけると信じたい。
しくじり先生』を見ていて、謙虚さがある先生だと嬉しい。もはや伝説となった辺見マリさんの回(拝み屋に洗脳されて五億円だまし取られた話)も、辺見マリさんの謙虚さがあってこその「神回」なのだ。僕はギター侍こと波田陽区の回がとても好きだが、番組の打ち合わせで初めて「謙虚さ」(という表現に、ここではしておく)を知り、本番中にも少しずつそれを獲得していく様が、実に美しかったのである。
 謙虚さといえば、先日自殺により亡くなった方のHPに、「謙虚さというのは、自分が恵まれたことに気が付いて、その事に感謝出来るかどうかなんですよ。」(参考URL)とあった。いくらしくじろうがなんだろうが、『しくじり先生』に出られて、そこで「みそぎ」をさせてもらえる、というのは、ものすごく「恵まれたこと」なのだから、そういう気持ちが感じられないと僕は、「今回はちょっと嫌な感じだな」と思ってしまう。
 そう、僕は『しくじり先生』で行われていることは基本的に「みそぎ」だと思う。それまでの芸能活動をその時点でいったん清算するような。「反省しております、これからもよろしくお願いいたします」というのが基本構造で、だから「謝罪」は重要な儀式になる。だけど、それが形式のみに堕してしまうこともあって、そこを分けるのは「感謝」とか「謙虚さ」の有無だよなあ。

しくじり先生』が教えてくれるのは、「しくじらないための方法」だけでなく、「しくじったあとに、どのように禊ぎを行えばよいか」ということでもある。教壇に立つ先生たちの態度をよく見ていると、優れた禊ぎと、そうでもないものがあることに気づく。神聖に、敬虔に、している人はじつに素晴らしい。

 

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